海の五角形、棘皮動物―『ヒトデ学』

小説を読んでいて新しい登場人物が出てきたとき、その姿を思い浮かべてみる。しかし、それがうまくイメージできない時もあります。テッド・チャンの『あなたの人生の物語』に登場する異星人ヘプタポッドはなかなか思い描きにくい姿をしていました。曰く、七本の肢をもつ放射相称で、四本脚で歩き回り、残りの三本の肢は腕として使っており、脚と腕は隣り合っていない。謎多き姿の異星人は、とりあえず放射相称ということで巨大なヒトデみたいなものでしょうか。

 

ヒトデ。水族館で動物と触れ合えるタッチプールに常駐している。海の絵を描くならば、片隅にとりあえず星形のあいつを描いておく。存在感がありながら、しかしあまり意識したことはありませんでした。

ヒトデは「棘皮(きょくひ)動物」の仲間だといいます。その棘皮動物とはどんなものなのでしょうか。日本語で書かれた入門書は無いかと探してみたところ『ヒトデ学 棘皮動物のミラクルワールド(本川達雄 編著)』がとてもとっつきやすく、面白い本でした。

ヒトデ学―棘皮動物のミラクルワールド

ヒトデ学―棘皮動物のミラクルワールド

 

 

『ヒトデ学』は編者をはじめとする棘皮動物の専門家たちが、日本語での入門書がないことを嘆き、学生やダイバーがすらすらと読める縦書きの本を作ろうと目指して誕生したもの。その試みは結実し、専門書でありながらもとても読みやすく、棘皮動物の世界を概観でき、この手の本にしてはお財布にも優しいのです。

 

棘皮動物の専門家たちの愛がこれでもかというほど詰まっているこの本、例えば随所に研究対象への愛が輝き、ヒトデの空腹については「もっとも、もっとお腹が空いたときは餌を探すというよりは、ただひたすら寝てしまって、エネルギーを温存しようと寝床にしけ込む場合が多いようだ」という表現になるし、ウミユリの生態については「いたって謙虚な生き物」であり「けなげな作戦で生き延びている動物なのである」と語られ、海岸で見つけにくいクモヒトデは「クモヒトデははにかみやで、岩の下や泥の中に隠れて棲んでいることが多いのでお目にかかる機会はそれほど多くないかも知れない」と紹介されます。

巻末付録として、棘皮動物の分類表、棘皮動物かぞえうた(作詞作曲は編者)、参考文献がおさめられています。ちなみに、同じ編者の『ウニ学』にはやっぱり編者作詞作曲の「ウニの棘」が収録。*1

 

棘皮動物の分類

 現在生きている棘皮動物は五つの網(「網」大きな分類の単位)に分類できる。ウミユリ、ウニ、ナマコ、ヒトデ、クモヒトデがそれです。

ウニやヒトデ、ナマコは海岸で目にしますし、水族館のタッチプールでぷよぷよしているので目にすることも多い。クモヒトデは岩の下や泥の中に隠れているので、やや遭遇しにくい。そしてウミユリ類は茎をもつものになると深海にしか生活していません。

では棘皮動物はずっとこの五網だけなのかというと、古生代の海底は棘皮動物だらけで、二十もの網が繁栄しており、特徴的でへんてこで、面白い形のものもいろいろいらしい。体長20メートルにも達する巨大なものもいた。系統関係はまだよくわかっていない。中生代には現生五網になってしまったが、化石記録から最初に棘皮生物が登場したのはカンブリア紀中期だということがわかっている。先カンブリア時代にも怪しいものはあるものの、軟体部といわれる細胞などの組織からなる部分が化石には残らず、棘皮動物の特徴の一つである水管系があるかどうかを調べることが困難。

 

棘皮動物の特徴

棘皮動物というのは一つの「門」の名前です。

棘皮動物はほかの動物門ではみられないユニークな特徴ばかりで、容易にほかの動物から区別できます。「棘皮動物とは、動物学者を不思議がらせるために、特別にデザインされた高貴なる動物群である(byリビー・ハイマン)」というくらいに、ユニーク。

1.五放射相称

体が五放射相称、つまり星形や五角形をしている。中心の軸の周りに五つの同一の構造が放射状に配列している。現生のすべての成体にあてはまる。一見左右対象に見えるナマコとウニも五放射相称からの二次派生。ウニなんてボールに棘が生えたみたいで、ちょっと五角形には見えないかも知れませんが、棘を取ってしまうと五放射であることがよくわかります。

七放射相称や九放射相称の体制も過去には何度か進化しましたが、これもやっぱり五放射からの変形。

なんで五なのかというのは、変態直後の骨格強度を維持するためとか、摂食効率がよいとか、球体を覆うならサッカーボールみたいに五角形が適切だろうとか、いろいろ説があります。

2.皮膚内に多数の骨片が埋まった構造の骨格系

小さな骨片はスポンジのような微細構造を持つ。色々と形を変えて体を覆ったり、棘になったり、ピンセット状の叉棘になったりもする。表皮のすぐ下にあってまるで外骨格のように働く。棘はとがって突き出しているけれども、あくまで表面には皮膚があり、棘が皮膚の下に埋まっている。

3.皮膚の硬さが可変

棘皮動物の皮膚はドロドロに融けるほど軟らかくなったり、カチカチに硬くなったりと皮の硬さが変化する。骨片がコラーゲン質の靭帯で結合されているのだが、その組織(キャッチ結合組織)が神経の作用によって短時間で変化することが可能。しかも変化は可逆的。この特性により、エネルギーをあまり使わずに強力に姿勢を保つことができる。ウニが長い棘を立て続けられるのも、このため。

ちなみにナマコはこの皮(結合組織)が体の大部分を占めている。

4.水管系をもつ

水の詰まった管の系は、末端が多数の管足として体表面から突出し、運動、摂食、呼吸などにおいて重要な役割を果たす。

動物においては水圧で動くシステムというのは珍しくはないが、表面にこれほど広く水圧で動くものを配置しているのは棘皮動物だけ。

 

その他、棘皮等物の特徴は

  1. 海にすむ。海にしかすんでいない。
  2. 神経系はあるが中枢化してない。脳と呼べるものがない。
  3. エネルギー消費量が極めて少ない。
  4. 幼生期は浮遊し、成長すると底性になる。

などが挙げられる。

 

あなたの人生の物語 (ハヤカワ文庫SF)

あなたの人生の物語 (ハヤカワ文庫SF)

 

 

 

*1:ウニが球形の動物の代表として登場する『生きものは円柱形』では「円柱えかきうた」をはじめとする3曲が登場し、出版社のホームページで著者による歌を聞くこともできる。できるのです。

かはくさんぽ―国立科学博物館

かはくさんぽ(0)はじめに

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国立科学博物館 日本館 ネオルネサンス様式の建物自体が国の重要文化財 正面には神殿のような石の柱。 

 

上野の「かはく」こと国立科学博物館といえば老舗で大御所で超有名博物館。解説書籍もネット上の見所案内も充実しており、いまさら何か語る必要はないのですが、来館者の数だけ楽しみ方はあると信じて、私流の「さんぽ」の仕方をお伝えできればと思います。

 

国立科学博物館 National Museum of Nature and Science,Tokyo

国立科学博物館 日本館 ストリートビュー

 

かはくさんぽ(1)恐竜展示をじーっとみる

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地球館1階 地球史ナビゲーター 生命史の代表選手としてアロサウルス。1964年に日本初の全身復元骨格として公開された老舗骨。2015年7月の地球館リニューアルオープンにあわせて尻尾を地面から上げる形に直して再登場。

かはくと言えば恐竜展示、恐竜展示といえば迫力満点の全身骨格、といいたいところですが、まずは地球館地下一階のこちらがお勧め展示。ヒトと始祖鳥の全身骨格が並べられている。なんだか楽しそう。ヒトと、恐竜と鳥との懸け橋である始祖鳥。脊椎動物って骨にしてしまうとよく似ていますね。

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もちろん迫力の全身骨格もあります。中央に見えるトリケラトプスは非常に完成度の高い実物化石。地中に横たわった時の状態を残しての展示。

トカゲなどの爬虫類と恐竜のちがいを全身骨格から見つけられるでしょうか。ワニやトカゲなどの爬虫類は、体の横に突き出した足で這って歩きます。恐竜の骨格を見てみると、足は体の下にまっすぐ伸びていますね。直立歩行は重い体を支えるのに適しているので、これこそが恐竜が巨大化の一因とも言われているそうです。

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解説板にも面白いことが書いてあります。「史上最小の恐竜は何だろう?」

これまでに発見されている最小級の恐竜は50cm程。しかし、鳥が恐竜の直系の子孫であると考えるならば体長2㎝程のハチドリが最小の恐竜と言えるのだ、というちょっとアクロバティックな答え。

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かはくさんぽ(2)ほにゅうるいが あらわれた!

恐竜展示もいいけれども、我らが哺乳類はどうなのか。

地球館地下2階に行ってみましょう。ここでは恐竜絶滅後に爆発的に進化した古代の哺乳類に出会えます。この巨大生物はインドリコテリウム。草原に適応した史上最大の陸上哺乳類。

大きな角や牙を持ちながらも木の葉を食べていた大型哺乳類や、牙が下方向に二本はえた象、首が長いサイのような巨大生物、そしてマンモス…こんな変てこ哺乳類が地表を闊歩していた時代があったのですね。

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約3億年前に陸上へ旅立った爬虫類と哺乳類の中には、再び生活の場を水中に戻したものもいます。かれら水生爬虫類と水生哺乳類の全身骨格もこの地球館地下2階で見ることができます。恐竜以外の巨大生物もおもしろい。

 

ちょっと骨を見飽きたなと思ったら、地球館3階へ移動してみましょう。

野生生物の毛むくじゃら剥製群です。

剥製なんて…近くに上野動物園あるし…とお思いかもしれませんが、ガラス越しではあるもののすぐそばに近寄って観察できるのが剥製の利点。

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 絶滅動物、絶滅危惧動物のエリアにはニホンオオカミの剥製もあります。現存する剥製標本はたった三点(かはく、東京大学和歌山県立自然博物館)という大変に貴重なもの。和犬に似た顔つき、小さな黒い目が可愛らしい。近くにいるコヨーテと比較してみるのも面白いかもしれません。

 

そういえば動物のグループ分けや命名ってどうやってやっているんでしょう。

ちょっと地味ながら解説板がありました。ふんふん。

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かはくさんぽ(3)ご先祖様、こんにちは

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地球館地下2階の霊長類の全身骨格模型。どれがヒトでしょうかクイズみたいになっている。オラウータンとの区別がつきますか。

霊長類の中から誕生した人類の祖先、直立二足歩行のユニークな動物。そんなご先祖様の歩みも探してみます。地球館地下二階には人類の進化に関するコーナーがあります。足を踏み入れるとそこには…こちらを指さす小さな人!

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こちらを指さすのはアファール猿人の「ルーシー」です。ホモサピを見つけてひたすら驚いています。隣のとても背の高い原人少年「トゥルカナ・ボーイ」は驚きつつも興味津々といった様子。一番奥のネアンデルタール人の男性は槍を持ったまま冷静にホモサピを観察しているようです。この展示は、現代にやってきた古代人たちが私たち来館者と出会った時の様子を想定して演出しているもの。

人類と言っても身長も手足の長さもバランスも、持ち物も、そして恐らくは未知のものへの反応も様々。

 

地球館1階 地球史ナビゲーターには古代人たちの頭骨レプリカにまぎれて、貝殻のビーズが展示されています。アフリカ南端ブロンボス洞窟で発見された人類最古級のアクセサリー。約7万5千年前に、人類は身を飾り、そしてそのことが仲間の中でなんらかの意味を持っていたことを表しています。

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こちらは日本館 2階北翼での日本人の歴史コーナー。

港川人、縄文人、弥生人、中世人、近世人…とかつての日本人の暮らしぶりを見ていくと、展示物のないガラスケースがあります。これは来館者が中に入ることで現代人の展示物になれてしまう。かはくジョーク。

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 片隅にあるのは縄文時代の10代後半とみられる女性の骨。恐らくは小児麻痺で一生涯寝たきりだったと思われる。彼女の生涯は縄文人が仲間を介護した証拠。

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かはくさんぽ(4)地球のひみつを探れ探れ探れ

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地球館2階 観測ステーション 地表の温度、水蒸気量、地磁気変動などの観測データが準リアルタイムで更新されている。気になるデータに手を伸ばして映像を拡大できる。やたらにカッコイイ部屋。

体験型展示もかはくのお楽しみです。

地球館2階に移動しましょう。ここは科学技術による地球の観測を主軸に、物理分野の展示がたっぷり。

 

電波の性質を身近なもので体感できる展示。

材料は金属のザルとラジオ。

電波は導体で反射するので、FM放送のラジオに金属のザルを被せるとザーッとなり、地デジ放送のラジオに被せるとぴたりと音が止まる。

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こちらも体験型展示の地震震源地と震源の深さを推測するブース。モニターの周囲の複数の椅子が地震の観測所代わり。椅子の揺れたタイミングから地震発生箇所を探しましょう。

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地球の観測と言えば人工衛星。地球館1階にひまわり1号の予備機が展示されていますが、人工衛星と一言にいっても、目的によって軌道はいろいろ。

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地球磁気の逆転した78万年前の地層実物標本や、八木・宇田アンテナを操作できるコーナーもあります。

 

体験型展示だとひっそりとこちらもお勧め。地球館地下3階での分子の性質についての展示。分子の世界という小さな世界での左右が、私たちが感じることのできる大きな違いとなってあらわれる。

メントールのL体とD体のにおいを嗅いで比べてみましょう。くんくん。

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かはくさんぽ(5)建物だって付属施設だって楽しい

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かはく平面図。日本館は当時の最先端科学の象徴たる飛行機の形をしている。

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博物館の建物自体も見どころです。昭和6年竣工の日本館は国の重要文化財。内装はこんな感じ。ステンドグラスがうつくしい。

 

かはくには勿論レストランもあります。地球館中2階にある「ムーセイオン」は窓際の席に案内されると展示(地球館1階系統広場)を見ながら食事ができる。

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シェフおすすめメニューを注文してみました。大きなマカロニはアンモナイトを模してるのかしら…ダイオウイカかしら…。


博物館といったらミュージアムショップもたのしみのひとつ。各種の宇宙食やフラスコなどの実験器具、カンブリア紀生物ぬいぐるみ、忠犬ハチ公クッキーなどが所狭しと並び、ちょっとマニアック過ぎないかと勝手に心配になる。

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こちらはお店の看板娘恐竜のテラちゃん。のらないでくださいと書かれている。のらないであげてね。


評価されない人気者―『二人でノンタン』

 墨の線はまっすぐではなく、ぶるぶるふるえているような線ですが、決して緊張のために手がふるえたわけではありません。最初、ネコのふわふわした毛並みの感じを出そうとして描いたもので、画面全体も柔らかなものにするため、建物も花も木もみんな動物と同じタッチでまとめたものです。

 子供の頃に、お風呂に肩までつかって「おまけのおまけのきしゃぽっぽー」と歌ってよく温まってから上がっていました。ノンタンが絵本の中で唱えていた言葉です。ノンタンの絵本は、ミリオンセラーの絵本の中に何冊もランクインしており、最も出版数の多い『ノンタン ブランコのせて』は現時点で243万冊の売れっ子です。そして、それほどの人気でありながら、保育園や絵本の研究会などで配られる絵本リストではあまり見かけないのです。子供に大人気なはずの絵本シリーズなのですが、各種絵本ガイドで評価されていないように思えます。

 不思議だなと思いつつも、子供に読むためにノンタンの絵本を購入してみたのですが、親世代である私が懐かしく感じるような古いノンタン絵本と、新しいノンタン絵本では雰囲気が違うように感じる…。ぶるぶる震えた線で描かれるノンタン世界。その震えた線も、古いシリーズでは柔らかさと子供の躍動感を表現しているように感じられるのですが、新しいものでは線が乱れているように見えてしまう。背景の絵もどんどんと減っており、立体的な絵による展開(例えばノンタンが建物の側面に歩いてまわりこむ等)も今世紀に出版されたものからは見られなくなってくる。

遺作となった最新作『ノンタン スプーンたんたんたん』はノンタンがご飯を食べて大きくなり星や月や太陽を食べてしまおうとするお話ですが、豪快で無邪気ではありますが、幼い子供が感情移入する余地があまり感じられません。

 

 なによりも、作者の名前が「大友康匠/幸子」の共作から「キヨノサチコ」に変わっていることが大きな違いです。

これはノンタンの作者である大友康匠さんと大友(清野)幸子さんの離婚後に、著作権に対しての双方の認識の差異から起きた「ノンタン絵本裁判*1」をうけてのもの。「童画界のおしどり夫婦」での共作であると思われていましたが、現在ではストーリーの筋書きから主要登場人物の造形までキヨノ氏の単独作成であったということになっており、作者名は全てキヨノ氏の名前のみとなっています。

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  裁判の中でも登場するのが離婚の3年前に書かれた『二人でノンタン』です。ノンタンの制作話から、シリーズの誕生の過程、そして大友夫妻の出会いと結婚、絵画教室の開講、結婚後七年目の妊娠と出産…という二人の作家の結婚生活のエピソードが書かれています。

  果たしてノンタンは本当にキヨノ氏の単独作品だったのか。本書においては共作であるということが印象に残る描かれ方をしています。例えば『ノンタンおよぐのだいすき』のストーリーを考える段階では、「いよいよ戦争開始!」と夫婦が格闘しながら話の肉付けをしていく様子があるのですが、これが、なかなか激しいのです。

ミスターノンタンは実は自分の絵コンテの方が面白いと自信を持っていますから、面倒くさそうにペラッペラッとページをめくります。そして、ちょっとでも気にくわないところがあると、やおら赤鉛筆を取り上げ、父の敵!とばかり、満身の力をこめて大きく「×」を描くのです。赤×だらけになった絵コンテをミセスノンタンに突返し、
「もう一度、じっくり練りなおしたほうが良いみたいだね、うん」
「………」
「三十二頁も使って、こんなのじゃ間のびしちゃって面白くないよ」
「………」
「君はまだまだ基本ができてないんじゃないかな。絵もストーリーもアマチュアの域を脱するのはこの分だと何年先のことか。シビアな現実を見つめなきゃ。釣りあげた魚は恐ろしい顔をしていた、それで皆が驚いて逃げる。そもそも君の考えたこの幼稚きわまるストーリー自体に問題はひそんでいるんじゃないかな、うん」
「………」
「僕はたちどころに『おにごっこ』と『かくれんぼ』『まいごになったノンタン』の絵コンテを作ってみたんだ。君が一つ描いているあいだに三つも話を作る、これはプロとして当然のことだろうけどね。まあ見てごらん」

 ミスターノンタンこと大友氏の駄目出しに、続くのはミセスノンタンことキヨノ氏の反撃です。

「こんなひどいでたらめなこと描いて、よく平気ね。自分で何描いたか知ってるの。なんでノンタンやうさぎさんが、ああ疲れたってコーヒーを飲まなくちゃいけないのよ?読者は子供なのよ。子供がコーヒーを飲むわけないじゃない」(中略)
「がみがみいわずそこのところ赤鉛筆でチェックしておけばいいじゃないか」
「このおにごっこのお話なんだけど、確かに子供がよく遊ぶものには違いないけれど、ノンタンの腕白ぶりがまるっきり出てないと思うわ、こんなストーリーじゃ子供が胸をわくわくさせて読んでくれないわね。保証するわ。かくれんぼのストーリーだって同じよ。まいごのお話はノンタンがぶらんこで見せたあのノーティーな性格がぜんぜん出ていないし、後半は泣き虫ノンタンになっちゃってるわ。私たちが作ったぶらんこのノンタンだったら、まいごになったって、歯を喰いしばってもっと頑張ってお家に帰る筈でしょ。あなたは思いつきだけでストーリーを作るから、登場するキャラクターの性格がでたらめになっちゃうのよ」

  この後、本気で怒りあった末に大友氏が家を飛び出し、それを「逃げるのね」とキヨノ氏が追いかけるという顛末です。

f:id:chiba8:20150824223114j:image絵に関しても、朝型生活のキヨノ氏が、夫が眠っている間に「誰にはばかることなく思う存分塗りたい色を塗っ」た後に、今度は夜型の大友氏が「ミセスノンタンが塗ったバックの葉っぱの色が、若草色から深緑に変えられているのです。花の色もスカーレットからピンクに、バックもブルーから紫に、すっかり塗りかえ」てしまうというように、お互いに納得がいくまで塗りかえを行った末に完了するそうです。「ああしんど。」と書かれていますが、まあ、そうでしょうね。

全体的にこのノンタンの制作裏話は、夫婦の間での戦いの様子が描かれており、これをこのまま読めば「情熱的にノンタンの絵本制作にとりくんだ」とも感じますが、この後の離婚と訴訟を知った上だと、ノンタンこそが夫婦の関係を摩耗させる要素であったのかもしれないとも思ってしまうのです。

内輪の話、夫婦だからこそ死闘に近い戦いがあり、一つの作品が出来上がっているのですが。 

  ノンタンといえば、わんぱくな白い子猫の男の子です。道徳的で模範的ないい子というよりは、自己主張と無邪気さの塊で、幼児らしい造形です。この溌剌としたキャラクターの性格はどこからきたのだろうと思って読んでいると、キヨノ氏の言動を子猫にすると、そのままノンタンになるのではないかと気付きます。結婚後にトンガに3か月の一人旅に出た際の旅行記があり、異国の地でのびのびと歌って踊って剣を振り回しています。 

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 帰国後も合気道を習い始めたり、クリスマスに一喜一憂したりというエピソードがあります。どちらかといえば内気でインドア派の芸術家肌である夫とは対照的に、積極的な行動家といったイメージです。

 ならば、やはりノンタンの作者はキヨノ氏単独ということなのでしょうか。2000年以降の新しいノンタン絵本から感じた、古いシリーズとの雰囲気の違いは気のせいなのでしょうか。

 大友氏はもともとはキヨノ氏の絵の先生です。大ヒットと呼べる作品はないにせよ、ノンタン以前でも充分なキャリアのある画家です。高校時代に美しい後輩の美少女にモデルをお願いして熱心にスケッチしたことが画家人生のスタートとなったと語られており(ちなみにこの時の美少女は女優の小山明子さん)、絵のアルバイトの体験談や旅行中に熱心にスケッチをしたエピソードがあります。

 

 裁判ではっきりと決着がついたように、キヨノ氏の単独作品だったのか。本書を読むと、やはり、大友氏の影響がノンタンに全くなかったとは言えないように思うのです。絵本において絵は、非常に大きな要素です。絵の巧みさがストーリーに影響を与えることもあり得るでしょう。洗練された絵を描く、絵の師匠たる大友氏の影響は無視できないのではないでしょうか。

また、単調で地味なストーリーには「子供が胸をわくわくさせ」ることはありませんが、あまりにも突飛でイマジネーション重視のお話には子供はうまく感情移入ができません。子供向けのストーリーには難しい匙加減が求められますが、大友氏とキヨノ氏の「血で血を洗う戦い」こそがその難しさを乗り越える力となったのではないかと想像してしまいます。もちろん「影響を与えた」からといって名前をクレジットしないといけないということはありませんが。

 

 売れ行きと子供の人気に反して、あまり評価されない印象のあるノンタンの絵本シリーズ。その評価されなさの背景には、もしかしたら、裁判で白黒つけてしまったことにより零れ落ちてしまったものがあるのかもしれません。

 

二人でノンタン (1982年)

二人でノンタン (1982年)

 

 

猫はサイエンスがお好き―『真夜中に猫は科学する』

 真夜中に行われる猫の集会と言えば、ミュージカル「CATS」が思い浮かびます。舞台だけではなく客席にも自由自在に登場する猫たちが主役で、人間の登場はありませんが、舞台の存在そのものから猫という生き物に対する人間の特別な愛情(ちょっと片思いっぽい)が感じられます。

 ところで、猫たちは普段の集会ではなにをしているのでしょうか。夜な夜などこかで集会をしている猫たちは、なんと科学講座を開講していた…というのが『真夜中に猫は科学する』というサイエンス猫本で明らかになりました。本書の性格は意外に複雑で、小説でありながら免疫や遺伝についての一般向けのお勉強本となっています。構成と登場人猫物も慣れるまでは戸惑います。語り手の「わたし」及び「先生」は人間で、夕方に科学についてお喋りをします。そしてその夜に猫たちの集会で、猫のみ参加の科学講座が開かれます。翌朝、また人間2名のお喋りがあり…というのがひとつの章の構成です。場合によってはここに、猫の座談会形式の補講がつきます。語り手である「わたし」の名前がキミであるため二人称かと勘違いしたり、登場猫一覧は巻頭にあっても、人間の登場人物のそれはなかったり、猫の品種名が特に注釈なく登場するため、読み始めは戸惑いもありました。

 しかし、魅力的な猫たちの科学講座に参加しているうちに、それらは全く気にならなくなります。一般向けのサイエンス本は数多く存在していますが、本書の特徴のひとつは個性の強い猫がお喋りをしながら勉強をしていくということです。

猫たちの科学講座(アカデミー)の顧問役は「教授」と呼ばれる知的だけれどもちょっと乙女心には鈍感な、こげ茶のふさふさ毛の猫エクレア。幼馴染でワイルドな雰囲気なのに名前は可愛いキララ。喧嘩ばかりしている兄弟コタロウとレオ。勘違いと聞き間違いの多いサスケ。その他大勢の猫たちは個性的で、彼らのお喋りはちょうど、学校の同級生たちのようです。級友たちが、授業中に先生の説明に合いの手を入れたり、とぼけた質問をしたりした結果どんどんと授業が盛り上がり、ただひとりで教科書を読むよりもずっと内容が頭にはいってきました。「そういえばA君が招き猫は三毛猫だけれどもオスみたいな顔をしていると、遺伝の法則の授業の時に言ってたっけ」なんてお喋りの思い出が、授業内容の記憶のトリガーとなっていることもあります。にぎやかな猫たちの集会は学校の授業の「脱線」(教科書から少し外れた先生の話の方が、なぜか強く印象に残っているということがありませんか)のようです。

 生ワクチンと不活化ワクチンの違いや(ヒトの風疹ワクチンはウサギの細胞で増やすことでヒトに感染しにくいタイプになるというのはおもしろいです!)免疫の暴走、ES細胞とiPS細胞について、よく耳にするけれどもごっちゃになりやすい遺伝子、ゲノム、DNA、ヌクレオチドについての整理など、猫たちのお喋りを楽しんでいるうちに学べるのが嬉しいです。

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 猫たち皆が物分かりの良いというわけではなく、なかには読んでいる私と同じように、理解に時間がかかる猫もいるので説明図や補講、身近な例などでわかりやすく講義が行われるのもありがたいです。「インフルエンザ菌とインフルエンザウイルスの違いは?」という問いに「えーと、名前が違う?」と思いながらページをめくったら、猫のサスケが元気よく「えっとー。名前が違います」と言っていたのには思わず笑ってしまいました。

 読み終わる頃には次回のエクレア教授の講義で取り上げてほしい話題や疑問がいくつも頭に浮かんできており、猫たちとのお別れをさびしく感じます。どこかでまた会える機会を待っています。

 

(猫の画像は本からのイメージです)

 

真夜中に猫は科学する エクレア教授の語る遺伝や免疫のふしぎ

真夜中に猫は科学する エクレア教授の語る遺伝や免疫のふしぎ

 

 

男の子と女の子の『妖怪ウォッチ』

 本屋の絵本コーナーの片隅には子供用雑誌が置かれており、先日久しぶりにのぞいてみたら驚きの赤。小学館学年誌である『幼稚園』『小学一年生』『小学二年生』は全て表紙に赤い猫のキャラクターが描かれている。そう、昨年2014年に子供世界のカルチャーを完全に塗り替えた『妖怪ウォッチ』のジバニャンが学習誌の表紙を占拠しているのです。(『小学一年生』バックナンバー『小学二年生』バックナンバー『幼稚園』バックナンバー 参照)

 

 妖怪ウォッチの人気は静かな我が町の保育園にも広がっており、保育園では兄貴・姉御な4歳児や5歳児は男女問わず『妖怪ウォッチ』の歌やダンスが大好き。既に4歳ともなると、男女別れてグループを作りがちなようですが、妖怪ギャグを披露しあって男児も女児も転げまわって喜んでいる。

 

 私は最初はこの爆発的な人気をちょっとうがった見方で眺めていました。ポケモンのように妖怪を蒐集するゲームであるとか、主人公の友人関係がドラえもんと相似形だとか聞くたびに「ふーん、二番煎じ作品ならそんなに長くは続かないよねー」と思っていた。しかし、子供の保育園でも「ようかい体操第一」を踊り始めたと聞いてにわかに興味が。食わず嫌いはよくないと思いゲームをやってみると、登場キャラクターが非常に好感が持てる。そしてついつい、無料配信していたアニメのバックナンバーも見てしまいました。ジバニャン*1、可愛い…。

 基本的なストーリーはとても単純。日常の中のちょっと困ったことが、実は妖怪の仕業であり、主人公の小学生ケータ君が妖怪ウォッチという妖怪が見える時計型アイテムを使って原因となっている妖怪の姿を探し当て、説得によって解決するというものです。ドラえもんポケモンに似ている点があるということで、実際に見る前はあれこれ勝手に想像して遠巻きに見ていたのですが、とてもおもしろいです。

 

 ポケモンドラえもんに似ているというのは、昨年からさんざん指摘されています。仲間にしたポケットモンスターを呼び出し、ポケモン同士のバトルで勝利することで、倒したポケモンを新たな仲間としてゲットしていくポケモンの世界観は、ゲームにマッチしており、現在進行形の歴史的名作でしょう。このゲーム性を『妖怪ウォッチ』も基本的には取り入れています。そして、『妖怪ウォッチ』の主人公・天野ケータとその友人達の関係はドラえもんとそっくりです。のび太がケータ君とするならば、ジャイアンのように体躯の立派なガキ大将のクマ、スネ夫のように小柄でお金持ちなカンチ、しずかちゃんのようにしっかり者の美少女フミちゃん、そしてのび太の家の居候の猫型ロボットは猫妖怪のジバニャンでしょうか。しかし、ポケモンにもドラえもんにもよく似ていながら、現代の子供たちに受け入れられやすい要素が『妖怪ウォッチ』には多くあります。

 

 ドラえもんは子供を主役にしたドタバタ喜劇であり、同時に優れたSF漫画でもありますが、一人の人間の結婚を描いた大河漫画でもあります。記念すべき第一話で未来からやってきたドラえもんは、のび太の悲惨な将来を学校は落第、就職できず、興した会社は倒産と並べていくが、その最たるものとして語られるのが、結婚相手がジャイ子ということ。大河恋愛漫画としてドラえもんを見たとき、最大の敵はブスな女の子となる。ドラえもんが未来から来た理由は、ブスからのび太を救うためです。凶暴なジャイアン、財力をひけらかすスネ夫、女友達がいないしずかちゃん。改めて振り返ってみると、現代的価値観からは残酷な話に見えてしまう。

 ポケモンではバトルによって打ち破ったポケモンを、不思議なボールの中に封じ込めて蒐集し、図鑑を完成させます。ポケモンを使役するトレーナー同士が、ポケモンバトルで対戦しポケモンマスターという頂点を目指す。ピカチュウのような可愛い人気キャラクターもいますが、なんといってもこの蒐集作業とモンスター同士のバトルという要素がゲームを盛り上げてくれました。しかし、一方で、ゲームをしている間中どうしても心の片隅に「手下にしたポケモンを酷使している」という罪悪感があった。

 

 現代版ドラえもん、ポストポケモンと評される『妖怪ウォッチ』では、友人のクマは暴力的な喧嘩はしませんし、カンチも財力をひけらかしません。フミちゃんには女の子の友達もいます。ジバニャンは保護者でも使役する手下でもなく、対等な友達です。そしてゲームでこそバトルが多いものの、人気の中心であるアニメでは、驚くほどバトルが少なく、妖怪に関しての困りごとは説得によって解決するのが基本なのです。

 

 しかし、現代的であるというだけで子供にこんなにも愛されるのでしょうか。ゲーム、アニメ、そして少年誌『コロコロコミック』に連載されている少年漫画版、少女誌『ちゃお』で連載されている少女漫画版を見ていると、それぞれの媒体による違いが興味深いのです。

 

 自分の性別もわからなかったはずの子供が、成長していくうちにあっという間に性別ごとに遊びのグループを作るようになり、男女で随分と違った遊び方をするようになる。保育園で子供たちを眺めていても、女児は手先が器用な子が多いなとか、男児は活動的な子が多いなとか、学年が上がるほどに差を感じてしまいます。そういった差が先天的なのか後天的なのかはたまた観測者の思い込みなのかはわかりませんが、その男女差を反映したように漫画版の『妖怪ウォッチ』にも、少年誌と少女誌でくっきりと違いがあります。

 

 少年誌『コロコロコミック』連載の『妖怪ウォッチ』は、石造りのガチャガチャをまわしたところ妖怪執事のウィスパーの封印を解くことになり、妖怪ウォッチを貰います。妖怪を説得したり、悩みに共感したり、執着が間違いであると教えることで友達になっていくのはアニメとも共通していますが、バトルシーンも印象的です。ケータ君も「妖怪探しに出発だ!」と積極的に妖怪を探していくし、毎回話の最後には「天野ケータ、ただいまの妖怪友だち[n]匹。」と友達の数をカウントしていく。コロコロ版漫画はゲームより先行して世に出ているのですが(ゲームと妖怪ウォッチのデザインが違うという内情を描いた四コマ漫画もあります)、ドタバタ度はゲームやアニメより高い。ケータ君は単純ながらも裏表のない優しい子ですし、ジバニャンは下世話で変な顔ばかりしている。執事のウィスパーは体を張ったブラックなギャグも多く、子供たちに愛される清くなくて正しいスラップスティック・コメディです。大人もわかるネタを豊富に含んだアニメに比べると、大人への目配せは全くないのですが、その分少年たちの心を掴むギャグが満載。

 主人公をフミちゃんに設定した少女誌『ちゃお』連載の『妖怪ウォッチ わくわく☆にゃんだふるデイズ』は本家のギャグを踏襲しつつも、少女マンガの文脈で描かれています。ゲームでは主人公を男の子のケータ君、女の子のフミちゃんから選択できるのですが、少女漫画版ではこのフミちゃんが主人公。骨董品店で雑貨を探していたフミちゃんが偶然ジバニャンとウィスパーの封印を解いてしまい、コンパクトにも似た懐中時計型の妖怪ウォッチを貰う所からストーリーは始まります。活躍する妖怪は可愛らしさやかっこよさ重視。庇護欲をそそる可愛い狛犬妖怪のコマさんとコマじろうとも同居しているし、イケメン妖怪のオロチやキュウビとのエピソードも多い。ジバニャンも元の飼い主の影響で女の子好きというキャラが前面に押し出され、フミちゃんにべったりと甘えています。妖怪との出会いはひたすら受け身の巻き込まれ型。妖怪と語り合ったり、悩みを共有することで問題解決をすることが多く、バトル描写はほぼありません。 

 同じ漫画版でも、少年漫画と少女漫画で随分とテイストが違っています。銭湯に居座って迷惑をかける妖怪のぼせトンマンを追い払う場面でも、コロコロ版ではギャグ含めつつバトルシーンに多くのページを割いています。ちゃお版では嫌味なしりとり勝負をしている。

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(左:『コロコロコミック』連載の漫画。飛んだり跳ねたり火を噴いたり派手なバトルが11ページ続く。右:『ちゃお』連載の漫画。豚の妖怪のしりとりに対して豚料理ばかりで返す。)

  かつて『コロコロコミック』を愛読していた私には、コロコロ版のしょうもないギャグが多い『妖怪ウォッチ』の方が懐かしくも馴染み深く感じますが、ちゃお版のラブコメ要素や女の子らしさを前面に出したストーリーの方が抵抗なく頭に入ってきます。きっと私が小学生だったらコロコロ版の激しいギャグの方が気に入っていたでしょうが、今ではちゃお版の方が安心して楽しめます。

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(『妖怪ウォッチ どきどき☆にゃんだふるデイズ』で妖怪とお菓子作りをするフミちゃん。女子会を開いたり、イケメン妖怪とちょっとドキドキするラブコメシーンがあったりと、ギャグはマイルドながら少女マンガの文脈に忠実。)

 

 男児受けする積極的にバトルを探し求める要素、女児受けする無垢なヒロインが愛される要素。ケータ君は積極的に無邪気に妖怪探しと友達の証の妖怪メダル蒐集に乗り出すアグレッシブな少年。バトルによって勝ち上がり友達の数を増やしていく清々しさを感じるものの、ちょっと単純。フミちゃんは日常の中で妖怪との騒動に巻き込まれるパッシブな少女。争いごとを求めず、協調を大切にする姿には共感できますが、受け身で無垢故に愛される姿は少し退屈。

 そういった男女間の世界の乖離をうまく調整して、ニュートラルに楽しめるようにしたのが現在人気の支柱であるアニメ版『妖怪ウォッチ』でしょう。アニメ版では主人公こそケータ君で固定されていますが、妖怪との出会い方は、ちゃお版のフミちゃんのように巻き込まれ型が多い。アニメ版にはほとんどバトルは無く、妖怪に対してはケータ君は基本的に説得することで問題解決をします。頭ごなしの説教ではなく、相手の立場を慮って話し合いをするアニメ版のケータ君はコミュニケーション能力が高い現代っ子。現代っ子の好きなハイテンポのギャグに、パロディや小ネタも多数織り交ぜた、老若男女が笑えるアニメです。

 先に挙げた小学館の学年別学習雑誌が「「学年別」に「男女共通」で「総合的な内容を持つ」雑誌という刊行形態の枠内では、成長と変化が著しい小学校中学年の子どもたちのニーズに必ずしも合致しなくなってまいりました。」(学習雑誌『小学三年生』『小学四年生』の休刊と、小学生向け新ムックシリーズの展開について参照)と男女共通形態が維持できないことを中学年向け雑誌休刊の理由として発表している中で、男女共通に楽しめるフィクションが誕生したことは嬉しく感じます。実際にゲームで遊んでいても小学生と「すれ違い通信」すると男女問わず『妖怪ウォッチ』で遊んでいることがわかる。

 男児が楽しめるバトルとドタバタした笑い、女児が楽しめる見慣れた日常と可愛い妖怪との関わり合い、そしてその橋渡しとなるように、男女が共に楽しめるニュートラルなアニメの世界。アニメでは例えば妖怪はらおドリに取り憑かれて服を脱いで腹踊りをしようとしたフミちゃんをケータ君が必死で止めるというような、安易に女児にお色気要員としての立場を求めない配慮もあります。ガキ大将のクマが暴力でクラスに君臨しているということもなく、弱みも多いやんちゃな普通の男児として描かれています。バトルを楽しむのもいいけれども、争いを求める事だけを男児に強いない。受け身でいることを責めないけれども、無垢なお色気要員であれと女児に強制しない。このニュートラルな調整こそが、男女問わずに子供カルチャーに受け入れられた秘訣なのではないでしょうか。男女の別なく楽しめる新しいフィクションと、男女それぞれの楽しみ方ができるフィクションが、両立している『妖怪ウォッチ』。妖怪たちがこれからも、男の子と女の子の世界を橋渡ししてくれることを期待しています。

*1:地縛霊のジバニャンは生前は女の子に飼われていた猫。しかし、トラックにはねられて死んでしまい、地縛霊になってしまいます。地縛霊のくせにある日ケータの家に居候として居ついてしまう。愛らしい声としぐさから人気のキャラクターですが、元々は女子高生の飼い猫ということもあって女子高生が大好きでハァハァするちょっとあぶない一面もあります。

朝ドラ「松谷みよ子」がみたいです。―『自伝 じょうちゃん』『小説・捨てていく話』

むかしむかし、きのうのきのうくらいむかし、じいさまとばあさまがありました。
じいさまは山へ毎日木を伐りに行っていましたが、あるとき、弁当を食おうとひろげたら、雀がみんな食べてしまっていて、くうくう昼寝をしていました。あんまり可愛いので懐に入れて帰り、ちょんよ、ちょんよと可愛がりました。一羽、二羽、山の雀はだんだんふえて五羽になり、じいさまはばあさまのことなどふりむきもしませんでした。
ある夜、ばあさまが胸苦しいので目を覚ますと、おちょん雀も他の雀も娘姿で、ばあさまの上を踏んで歩いていました。次の朝、目をさますとやっぱり雀です。
雀はばあさまの煮た糊をちゅんちゅんとみんななめてしまいました。叱りますと雀たちはぱっとこちらをむいて、いっせいにばあさまを睨みつけました。
ばあさまは怖くなって、逃げ出しました。

 

朝ドラ(NHK連続テレビ小説)の主人公として、松谷みよ子さんはどうだろうかと思っていたことがある。
朝ドラといえば、「逆境に負けず、たくましく生きる女性」が主人公で、同時に「太平洋戦争と戦後混乱期を乗り越えた女性の一代記」が多い印象があります。松谷さんは児童文学作家として著名で、『モモちゃんとアカネちゃんの本』シリーズは幼い子供に長く愛されている名著ですし、刊行当時0歳向けの本として画期的だった『いないいないばあ』などの絵本も現役のベストセラー絵本。そして、青春時代が戦争にあたり、陳腐な言葉ではありますが波乱万丈な人生を送っていらっしゃる。

 

先日、『自伝 じょうちゃん』を再読していたところ、小学生時代の思い出として「もうひとり、忘れられない同級生は宮崎蕗子さんである。宮崎龍之介氏と白蓮(旧姓・柳原)夫人の娘で狐塚のたしか上り屋敷寄りに家があった」という形で、友人を回想している箇所に気づきました。
白蓮夫人(柳原白蓮)といえば、昨年の朝ドラ「花子とアン」でも村岡花子の友人として登場し、仲間由紀恵さんが演じて大変な人気になったとか。なにかの縁も感じ、やはり「朝ドラ 松谷みよ子」をみてみたいと思ったのです。

『自伝 じょうちゃん』では、社会派弁護士で後に代議士ともなった松谷與二郎の末娘として誕生し、お嬢ちゃんとしての幼少期、父の死、戦争と貧困と疎開、恩師と友人たち、結婚と出産、そして離婚が瑞々しくも淡々とした文章で語られる。
『小説・捨てていく話』では、夫であり人形劇団の主宰者である瀬川拓男さんとの離婚が描かれています。『モモちゃん』シリーズで登場する“パパを残してのお引越し”や“靴だけが帰ってくるパパ”そして“死に神”の訪問など、不穏なモチーフが実際に松谷さんの身に起きた出来事なのだということが語られ、その凄みに震えることになる。

姉が「お嬢様」だから、その対として「お嬢ちゃん」の意で家族やお手伝いさんから「じょうちゃん」と呼ばれて育った幼少期。他称であった「じょうちゃん」を、みよ子さんは自称として使うようになる。弁護士で議員だった父(虎ノ門事件で難波大助の弁護人を務めた)の交通事故死によって、生活は困窮し、継ぎ布でふくれた靴下を履いて登校する。お父さんが健在だった頃に高度な教育を受けた兄や姉と比べると、進学もままならないのは、仕方が無いとはいえ残酷なことに思えます。
時代は戦争に向かい、兄たちは学徒出陣により出征。自らは命を投げ出すことを厭わずに“軍国の乙女”として女子挺身隊に応募したというのも、みよ子さんの後の作品にも見えるピュアな部分を感じさせます。やがて空襲を避け長野に疎開、そこで生涯の師・坪田譲治と出会う。戦後は横浜興信銀行(現・横浜銀行)従業員組合で働き、機関誌を刊行。処女作の出版と受賞。結核療養。片倉工業の人形劇サークルで瀬川拓男氏と出会い、結婚。闘病、そして出産と離婚。

美しい母、華のある8歳年上の姉、そして2人の兄。戦中、戦後の社会的状況の厳しい中、戸惑いながらも家族を支えて奔走するのは、何故かいつも末っ子のみよ子さんなのです。
兄二人が出征し、姉の夫は結核療養中のなか、美しく教養はあるが生活力が弱い母と姉と甥を養うため、仕事を見つけ、疎開先に荷物を運び(命がけで運んだ荷物に文句を言われ)、新しい土地で生活を始める。必死で生活環境を整えたのに、あるとき姉夫婦に出ていくようにいわれ追われるように別の住まいを探すことになる。姉の夫が病死したら、リヤカーに乗せて焼き場へ運ぶ。
戦争が終わって長兄が戻ってきたとき、東京の家が焼失したあとにふたたび都内に地盤を築けていなかったことについて、末っ子で女の子のみよ子さんを責める。そして、それに応えようとまた奔走する。そうでありながら、結核(義兄から姉経由での感染とみられる)に倒れたみよ子さんが入院しているあいだに、母と姉は、彼女が家(みよ子さんが確保したアパート)に戻ってこないように算段している。―「その母までが姉といっしょに「みよ子を引き取ってください」と先生におねがいにいったというのである。」―あんまりだと思うのです。
しかし、そういったことは決して恨み言としてではなく、さらさらと振り返るように、遠い情景を描くように書かれている。そして戦中戦後の厳しい時代でも、親身になって動いてくれる恩師や友人のサポートに心が温まります。行きずりの手相見から「あんたは身内より友達に助けられるよ」と言われる挿話があるのですが、この占いのなんと当たっていること。

夫・瀬川拓男さんとの結婚は実に色々な人から反対されていたようです。病に倒れたみよ子さんを看護し続けた瀬川氏は、結婚後すぐに「劇団太郎座」を立ち上げて主宰・運営にあたる。劇団メンバーが入り乱れる雑居生活は、みよ子さんの体の負担になっていることが伺えます。

新居のために借りた家は、私に突然肺の手術を受けるようにという指示が出たため、結婚も延期となり、男たちの住処となりました。共同炊事、共炊という私には耳慣れない言葉がとびだし、男たちはかわるがわる炊事をし、食べると表に○印をつけるのです。客をつれてくると○は二つになり三つになります。

結婚した私は、否応なくこのシステムに組み込まれ、集団生活の中で新婚時代をすごし、そのまま劇団がつくられていきました。

 

カリスマ的に劇団を引っ張る夫は、神様のように劇団に君臨し、魚の群れのように彼を慕う若い娘たちはいつも劇団という沼の「神様」にまなざしを送っている。劇団からは仲間は次々に去り、劇団の誕生から育て上げたみよ子さんが「私のような人間には棲めない世界に変容」したと感じるまでになる。

プロレタリアートを自認する夫とは理想とする家庭の形は違っており、やがて夫は「仕事場」と称してよそに居場所を作る。オペラのプリマドンナと過ごすための場だということはわかっている。「仕事場」を用意し、お金を都合することを一方的に押し付けられたみよ子さん。しかし、夫が仕事場に行くことに飽きると(「古い靴でも捨てるように捨てた、と思いました。」)、今度は自分が仕事場で小説を書き、本当の仕事の場にしていってしまう。

アカネちゃんが生まれてから、ママは、からだのぐあいがよくありませんでした。それで、外へいくお仕事はやめて、うちでするお仕事をしていました。
そんなふうに、からだが悪いせいでしょうか、ママは目も悪くなったようなのです。パパのすがたがみえたり、みえなかったりするのです。それは、こういうことでした。
夜、パパがかえってきます。
ママには、パパの歩きかたが、すぐわかります。
ピンポーン、ピンポーン。
チャイムがなります。ママはとんでいってドアをあけます。
けれども、そこにパパは立っていません。ただ、パパのくつだけがありました。
それで、おしまいでした。
ママは、とほうにくれて、くつをながめていました。いったい、くつにどうやって、ごはんをたべさせたらいいでしょうか。くつに、「おふろがわいていますよ。」 なんていうのは、ばかげています。
ママは、しかたなくブラシでほこりをおとし、クリームをぬりました。布でこすりました。とっても長いあいだこすっていたので、靴はぴかぴかになりました。その上に、ママの涙が、一つぶ、ポトンとおちました。
つぎの朝、靴はでていきました。

 『モモちゃんとアカネちゃん』

 

離婚後も共同で作り上げた仕事の存在もあり、瀬川氏との交流が完全に途絶えることはありません。娘たちも父親との交流を続けており、別の場所で、同じ子守唄を娘にきかせる日々。そして元夫の突然の死のあと、元妻という複雑な立場でありながら、形見分けも、墓の世話もすることになる。


「ねえ、パパの病気、なおるよねえ」「どうしても、もういっぺんあいにいって、パパとおはなししたいの。パパがわるいならあやまってほしいの」幼かった娘たちに病気や離婚を説明するために、おはなしに書いてほしいと言われて生まれた、歩く木の話。『モモちゃん』シリーズではパパは「歩く木」でママは「育つ木」です。何か("女"だと示唆されている)を探そうとするパパと、それを受け入れた上で生き続けようとするママ。両方の生き様が苦しくなり、ママの木の根は枯れそうになる。その物語を、決して逃げずに語るみよ子さん。別離も死も悲しみも、子供の人生の一部。過剰におびえることなく、美化することもなく、子供に伝えようとしたときに、名作たちが生まれたのです。


何度も自分の居場所を失い、帰るべき家から追い出されながらも、窮地に立つ度に恩師や友人に助けられ、最後には二人の娘を連れて、自分の家に住むことができるようになる。『モモちゃん』シリーズでも、ママやモモちゃんやアカネちゃんが辛いときに助けてくれるのは、血縁者ではなく“おいしいものの好きなクマさん”でしたっけか。

自伝としての王道である誕生からの半生記を書いた『自伝 じょうちゃん』、離婚と死を書いた『小説・捨てていく話』は、ドラマチックでありながら、どこか茫洋とした読後感もあります。
自伝の中の人物が持つはずの、強烈なキャラクター性や説教性を持たず、自伝でありながら自分語りをしていないようにも感じるのです。人から自分に関して語られたことを集め並べた部分も多い。自己像が薄いというよりも、「オマツ」「サンコ」「じょうちゃん」などの多くの他称によって、自己を語ったように読める。多くの他称を並べることで、ぐんぐんと歩き、自分の居場所を探し続けたみよ子さんを助けてくれた人々にスポットが当たります。読後感としては、自伝を読んだというよりも、まるで長い謝辞を読んだような気さえするのです。

自分の居場所を何度も探し、ピュアに前に向かって歩き続けた女性の一代記。朝ドラにどうでしょうか。

小説・捨てていく話

小説・捨てていく話

 

 

自伝 じょうちゃん (朝日文庫)

自伝 じょうちゃん (朝日文庫)

 

 

あたしもひとりぼっちなのよ―『秘密の花園』

 子供のための絵本を古書店やバザーなどで物色していると、すぐ隣に児童書コーナーがあることに気づきます。私は児童書をあまり読んだ記憶がないので、投げ売りのような価格になっているそれらが新鮮で、新しい狩場を見つけたような気分です。これから子供をだしにして狩猟本能を未開拓の児童書に向けられると思うと変な笑いが出てくる。子供のためという大義名分があるので財布の紐も緩くなりがち。

 そんな中、バーネットの『秘密の花園』を読み返す機会がありました。この本は小学生のころに子供用ダイジェスト版を読み、その後新潮文庫で読み直したのですが、三度目に手に取ってみたところ、今になって新鮮に感じ、思わず涙腺が緩む場面もあり驚きました。

 さまざまな媒体で紹介されている評価の高い作品ですので(発表当時は『小公子』『小公女』を超えるものとは思われていなかったようですが)原作を読まなくてもあらすじはよく知られていると思います。英国領インドで孤児になった少女メアリーは、英国ヨークシャーの叔父の屋敷に引き取られ、そこで閉鎖された庭園を見つける。病弱でふさぎ込んでいた従兄弟のコリン、地元の農家の息子ディコンと出会い、三人でその庭を手入れする。元気になったコリンは、父親にその姿を見せ、感動させる。簡単に言ってしまえば、これだけの話です。しかし、読み直していると、細部に味わい深い場面があることに気が付きました。

 (文中の原作からの引用は全て、瀧口直太郎さんの訳された新潮文庫版に拠っています)

  • わたしとヘビのほかには、誰もいないみたい

 この物語は異様な静けさの中からスタートします。ある朝、目を覚ましたメアリーは、広い屋敷の中に自分以外の人間がいないことに気が付きます。両親と使用人はコレラで亡くなり、残った使用人も逃げてしまっていたのです。誰も、メアリーのことを思い出さず、屋敷に残されてしまった9歳の少女。これは異常事態です。しかし、メアリーは心細さも恐怖も感じていません。世話をしてくれる召使が誰もいないことに腹を立てはしても、自分が孤独であることすら気付いていないのです。

 メアリーは英国領インドに派遣された英軍士官の父と、美しい母の間に生まれた一人娘です。母親は社交に夢中で、「小さな女の子など欲しくなかった」ので、世話はすべてインド人の召使に任せ、乳母はなるべくメアリーを人目につかぬように、「病弱で気難しい、みっともない赤ん坊」が泣いて奥様をうるさがらせぬように、何でも赤ん坊の望むようにしていました。母親の育児放棄と、メアリーの癇癪を恐れて恭順な姿勢をとりつづける召使により、メアリーは自分と温かなつながりをもってくれる存在がいないままに育っていったのです。コレラの猛威にさらされた屋敷では、彼女は誰からも思い出されず、両親が彼女を案じた形跡もありません。メアリーは既に「たった一人」の世界で生きていたので、屋敷に一人残されても、孤独を感じなかったのでしょう。

 やがて、父親の同僚が屋敷を見回りに来た際に、メアリーは発見され、現地の英国人牧師にとりあえず保護されます。その後、英国の叔父のもとに引き取られることになります。

 叔父の屋敷の敷地を散策している中で、メアリーは一羽の駒鳥がさえずっているのを見つけます。偏屈な老庭師ベンにそれは「自分がひとりぼっちだっていうことをちゃんと知っていた」鳥だと教えてもらう。彼女は「あたしもひとりぼっちなのよ」と話しかけます。この瞬間、生まれて初めて孤独を自覚するのです。

 

  • メアリーの分身

 メアリーは、若いメイドのマーサとの会話の中から、閉鎖された庭の存在を知ります。庭園が閉じられてから10年の歳月が流れています。そしてインドで9歳だったメアリーは、長い船旅で英国にやってきたおり、この時点で10歳程度だと思われます。この閉鎖された秘密の庭は、メアリーと非常に近い存在です。

「だれのものでもないの。だれもそれをほしがらないし、だれもかまってはやらないし、だれもそこへは入って行かない花園なの。たぶんそのなかのものはもうみんな死んでいるんでしょうーーあたしにはよくわからないけど……」

後にディコンに対してメアリーは秘密の花園をこう評します。これは、誰にも見つめられず、10年も捨てられてきたメアリー自身のことでしょう。

 

 作中には、この庭だけでなく、メアリーの魂の分身、一面だと思われる登場人物がいます。ひとりは偏屈な老庭師ベン・ウェザースタッフです。皮肉屋で駒鳥以外は友達はいないようです。

「あんたとわしとはなかなかよう似てるだ。わしらはおんなじ糸で織った布みたいによく似てるだ。わしらはどっちもきりょうがよくねえし、どっちもおんなじくれえ苦虫かみつぶしたような顔してるだ。わしらは二人ともまったくおんなじような、いやな気性の人間だよ」

屋敷の家政婦 メドロック夫人も「あなたはまるでおとしよりみたい」とメアリーを評していますし、マーサも「あんたは妙に年よりみたいなひとだね」と語るシーンがあります。老人ベンはメアリーの分身であり、メアリー同様の不機嫌で怒りを抱えた者です。そして後に秘密の花園の守り手ともなります。

 

 もうひとりは、メアリーの従兄弟であるコリンです。屋敷で存在を隠されていたコリンは、メアリーと出会ってお喋りに興じるようになりますが、なにかにつけて「自分は病気で死ぬんだ」とまるで病気であることを特権であるかのように振りかざします。そして周囲を怯えさせるほどのひどい癇癪もちで、屋敷の人々はコリンに癇癪を起させないように機嫌をとることが最大の任務です。メアリーとそっくりな性質のコリン。作中で、彼が自分の足で立つようになってから、メアリーの描写は極端に少なくなり、コリンの気持ちに関してクローズアップされていきます。メアリーの分身であるコリンは、メアリーと共に蘇った秘密の庭で健やかさを取り戻し、ラストシーンでは、孤独な屋敷の主人である父親の胸に飛び込んでいく。屋敷と庭と人々の再生を印象付ける場面での主役はコリンです。メアリーとその分身達は、一旦は孤立し輝きを失っていましたが、秘密の花園の復活と同じタイミングで再生するのです。

 

  • 屋敷の中でみつめる動物

 屋敷の「中」でメアリーが見つめる小さな動物たちは、メアリーと庭の生命力の回復を表現しています。コレラの蔓延で人々が死に絶え、または逃げ去って行った屋敷において、生き残ったメアリーが静けさの中で出会ったのは、たった一匹の、小さな害のないヘビでした。宝石のような目でじっとメアリーをみつめるヘビ(おそらく、この少女をじっと見つめてくれる存在はこれまでいなかったのだと思われます)。ヘビと見つめあうメアリーは、どこかヘビとの親和性も感じさせます。冷血動物(変温動物)であるヘビは、優しい気持ちのない生き物だというイメージがあるからでしょうか。

 英国に渡ったメアリーの心身は少しずつ健やかに育ち始めるのですが、その時期に屋敷の探索をしていた少女が出会ったのは、象牙でできた小さな象の置物と、クッションの中に巣をつくったネズミの赤ん坊でした。象牙の象はインドで育ったメアリーにとってはよく知ったものであり、かなり長い時間それで遊びます。まるで孤独だったインド時代の自分自身と遊んであげているかのようです。その後、小さな仔ネズミに対して「もしこんなにびっくりしさえしなければ、これをみんなあたしの部屋へもって帰るんだけど……」と呟くメアリー。小さいけれども、確かに温かい生物が、屋敷に巣を作っていることが発見できました。

 そして庭の再生が進んだ頃には、ついに、ディコンの連れて歩くカラスの黒助、りすの栗坊と殻坊、生まれたての仔羊を屋敷の中に招き入れます。メアリーが屋敷の中で出会う動物は、どんどん温かく大きなものになっていくのです。

 

  • 三人の母親

 この物語には三人の印象的な母親が登場します。ひとりはメアリーの母である「奥様(メム・サーブイ)」です。とても美しい人で、「レースだらけ」の服を着ており、パーティーに行って楽しく過ごすことだけが大好き。作中ではたびたび、母親はとても美しかったのに娘のメアリーはなんて不器量なんだろうと、容貌の比較のために引き合いに出されます。


 もうひとりはコリンの母であるクレイヴン夫人です。若く美しく花の好きな奥様。彼女は既に空の上を居場所とする故人です。「青い空」は彼女を象徴しています、

「奥様はえらく花が好きだっただ―ほんとにお好きだっただよ。奥様は、いつも青空の方へ顔をむけて咲いている花が好きだって、よくいわっしゃったものだ。(略)奥様は青空がただもうほんとにお好きだったが、青空はいつもとても楽しそうに見えるっていわっしゃっただ」

 

 そして三人目は、ディコンとマーサの「おっかさん」であるスーザン・サワビーです。メアリーと出会う前から、メアリーの境遇に心を痛めてマーサを通して助言をし、メドロック夫人に働きかけ、屋敷の主人にして領主であるクレイヴン氏にも話をし、メアリーに関心を持ってもらうよう仕向けていました。野性味あふれる息子のディコンはムアの動物のことなら何でも知っており、生命力あふれた少年です。娘のマーサもメアリーの健やかな生活のために尽力します(彼女は、初めて登場するシーンで暖炉の手入れをしています。これは、メアリーを温める存在であることを示唆しているように読めるのです)。土俗的な母性の象徴であり、ムアの生命力の体現者でもあるスーザン・サワビーは、その子供たちと共に、屋敷と庭とそれに関わる人々に大地の温かさを運ぶのです。初めてであった時にコリンは「あなたにあいたかった」と言い、彼女はそんなコリンを若様ではなく「かわいい坊や」と呼びます。おもしろいのは、この時、スーザンが着ているのは「青いマント」なのです。コリンを抱きしめるスーザンの背景に、青い空の住人であるクレイヴン夫人が重なるかのように感じられます。

 

  • 意外性のある登場人物の配置

 再読してみて、随分と印象が変わった登場人物がいます。屋敷につとめるメドロック夫人です。メアリーを通してみるメドロック夫人は、厳格でそのくせに面倒くさがりで、あまり良き大人とは言えませんでした。

 しかし、そんなメドロック夫人は、ディコンとマーサの母スーザン・サワビーの幼馴染という面を持っています。小学生時代の同級生であるスーザンに関して、自分の主人であるクレイヴン氏に「健全な心の持ち主」と紹介し、彼女の子供たちも「しごく丈夫でいい子ばかり」と評します。友人であるスーザンが褒められるとニコニコと笑って喜び、彼女との素晴らしい思い出話を語りだすのです。友人を自慢げに語るメドロック夫人は、まるで別人のように生き生きとしており、冷たさは全く感じさせません。メアリーの目からだけでは見えてこない登場人物の一面です。

 

 もうひとり、看護婦(師)という脇役も、再読時に驚くくらい印象の変わった人物です。この看護婦は病人の世話をするのが嫌で、すぐにさぼろうとします。メアリーも「どうしても好きになれなかった」と感じていますし、物語を動かく役目でもない脇役の中でも随分と地味な存在です。

 メアリーが庭仕事が忙しくてコリンの部屋にいけなかった際に、コリンは機嫌を損ね、ようやっと部屋に訪ねてきたメアリーと口げんかを始めます。「おまえは、わがままものだ!」「あんたはあたしよりもっとわがままよ」と激しくぶつかります。子供の頃は仲違いした二人にハラハラしていた記憶があるのですが、おとなになってから読むと、子供二人が大騒ぎしている、随分とへんてこな場面です。そして、そのおかしさを感じる読者の気持ちに沿うかのように、看護婦が「ハンケチを口にあてて立ったまま、くすくす笑っている」のです。ああいうわがままな子供には、同じくらいの駄々っ子が向かって行ってくれるといいのだと。

 その後、晩にコリンが癇癪を起して大騒ぎをします。悲鳴を上げて泣く声をきいているうちに、メアリーは腹が立ってきて、自分の短気は棚に上げて、こっちも大声で泣いて怖がらせてやるんだと足を踏み鳴らします。この時も看護婦は喜んで「行って坊ちゃんを叱ってあげてくださいな」と応援します。この看護婦の言うことは、大人の読者の気持ちにピッタリなのです。

 

 このように、子供向けのダイジェスト版では味わいきれなかった細部には、この作品の醍醐味がつまっています。まだまだ読むたびに発見があることでしょう。名作を読むとき、いつでも私たちは鮮やかな「秘密の花園」に足を踏み入れることができるのです。

 

秘密の花園 (新潮文庫)

秘密の花園 (新潮文庫)

  • 作者: フランシス・ホジソンバーネット,Frances Hodgson Burnett,龍口直太郎
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 1954/02/02
  • メディア: 文庫
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