青い鳥文庫で科学リテラシー―『七時間目』シリーズ

 子供に科学リテラシーを身につけてもらいたいと考える全国の保護者及び先生及び通りすがりの皆様におかれましては、どのようにリテラシーを学ぶ糸口を見つけるかということで日々悩んでいることと思われます。私はといいますと、前段階としてリテラシーとは何なのかがいまいち分かっていないため、Wikipediaで調べてみました(やる気ないのか)。

 そんな徳川埋蔵金にも等しい摑みどころの無さを誇る、科学リテラシー教育の糸口。朗報です。科学リテラシーの第一歩となる児童書を紹介します。もちろん基本的には、子供が科学リテラシーを楽しく学ぶ糸口となってほしいのですが、まずは大人が読めと思っています。ちょっと古くなってきた本ですが、どうせ年を取ると時間の流れを早く感じて去年も10年前も同じようなものでしょうから遠慮しません。

 

 藤野恵美「七時間目」シリーズは、『七時間目の怪談授業』『七時間目の占い入門』『七時間目のUFO研究』の三冊からなり、子供が大好きな怪談(幽霊談)、占い、UFOというオカルトに属するものを懐疑主義的な立ち位置から描いている小説です。超常現象を扱う児童書は多くありますが、疑いの目を向けるという取り組みは貴重です。そして、そうでありながらも超常現象の否定材料を集めたオカルト百人斬りではなく、少年少女の葛藤と成長を織り交ぜながらの等身大のエンタメ小説となっており、ジュブナイルとして楽しめます。超常現象を否定して、ハイ論破、という物語ではないので、子供が陥りやすい、懐疑主義的な視点を身につけたことを自己肯定の手段としてしまい、周囲を馬鹿にするという態度からも距離を置けるはず。

 三冊は続き物ではなく、独立した話となっています。それぞれの小説について刊行順に簡単に感想を書いておきます。子供は興味のあるものだけ手に取ればいいと思いますが、大人は三冊全部読めと思っています。

 

『七時間目の怪談授業』

七時間目の怪談授業 (講談社青い鳥文庫)

七時間目の怪談授業 (講談社青い鳥文庫)

 

 

月曜日。羽田野はるかの携帯電話に呪いのメールが届いた。9日以内に3通送らないと、霊に呪われるという内容。不安でたまらないはるかはケータイを先生に没収されてしまった!メールを送れない、とあせるはるかに、幽霊がいると思わせたらケータイを返すと先生がいった。毎日放課後、みんなで怖い話をするが、日にちはどんどん過ぎていく!

 ケータイを没収した古田先生は、幽霊なんて存在しないと言います。怖い話をして怖がらせることができればケータイを返すという先生に、はるかとクラスメイト達は放課後に怪談を発表するという内容。登場する怪談はお馴染みの「赤いちゃんちゃんこ」からダジャレ系怪談「恐怖の味噌汁」、不気味な日本人形、友達の友達から聞いた恐怖体験、伊集院光が創作した現代怪談*1など幅広く、単純に児童向け怪談集としても楽しめます。

 様々なタイプの怪談に出会ったはるか達は「そもそも怖いというのはどういうことか」「本当に怖いものはなにか」「幽霊が怖いのはなぜか」と考え始めます。ホラーゲームでもバイオハザードサイレントヒルと零とSIRENではそれぞれ持ち味が異なるのです。映画版のウェスカーはなかったことにしてください。

 幽霊を怖いと思うことと、死への恐怖は切っても切り離せない関係であり、本書は基本的には幽霊談に対して懐疑的な目を向けていますが、死への恐怖と命の大切さを考えることを粗末にしてはいません。

「幽霊が本当にいて、呪いとか祟りに力があるなら、みんなもっとそれにおびえて、生き物の命を大事にすると思う!だから霊とかがいればいい。」

  そして怖い話にはお馴染みの「本当に恐ろしいのは幽霊ではなく生きている人間だ」的なハラハラする話を経て、はるかは物語の最初と最後で、異なる見方で世界を見つめることができるようになります。

 

『七時間目の占い入門』

七時間目の占い入門 (講談社青い鳥文庫)

七時間目の占い入門 (講談社青い鳥文庫)

 

 

悩んだり困ったりしたとき、占いに頼りたくなること、あるよね。神戸の小学校に転校した、6年生の佐々木さくらも、そんな女の子の1人。趣味は占いって自己紹介して、すぐにクラスにとけこむことができたけど、その占いのせいで、クラスの女の子どうしが険悪な雰囲気になってしまった! 困ったさくらは占いで解決しようと考え、占いの館へ!

 占いが公共の電波に乗らない日は無く、占いを視界に入れずに生活するためには工夫が必要になります。占いの対象となるのは多くの場合は本人の意志では変えられない血液型、星座、干支、名前などです。そして本人の意志で変更できないような要素をもって人間を区別することは、大人であれば差別と紙一重だと理解し適切な距離をとることができます。しかし、子供であればどうでしょうか。

 子供にとっての占いは、無邪気で楽しい遊びとして広まります。無邪気なそれが徐々にトラブルを生み、深刻な差別を引き起こしていく過程に非常に説得力があり、特にリア充系の明るく可愛く派手なクラスの中心的女の子という、アメダスのように全国各地の小学校学級に配備されているタイプの女児の邪悪さは妙にリアルでこいつの家にAmazonで注文した「今日から踊れるどじょうすくい5点セット」を10セット分くらい送りつけたい。踊れ。

 血液型占いをクラスの多くが信じてしまった状態で、占い肯定派と否定派がぶつかる学級会は非常に簡潔にリテラシーの未熟な子供の危うさを示していて恐ろしい。「血液型占いは統計のようなものだから科学的だ」という主張と「実験データとして信頼できず、科学的ではない」という主張の対立から幕を開けた学級会では、占いで未来を知るということの矛盾についてや、そもそもABO式血液型とは何なのかということについての簡単な説明、そして差別とは何かといことに踏み込んでいく。

「血液型も性別も、生まれつきのもので、本人の努力では変えることがむずかしいものだ。そういうもので、決めつけるのは、差別だな。」

 ならば占いは悪なのかというと、この物語では絶妙なバランス感覚で占いのセラピーとしての側面、人の心を助ける力、気軽な遊びとしての付き合いを肯定している。占いのような怪しくて正しくなくて、しかし悪でもなく人を救いもする物事に、どう付き合うのかを問いかけることで、子供の成長を描いているのです。また、未来を占うということに対しての疑念の材料として、本作の舞台が関係してきます。神戸が舞台となっていることに関しては、単純な主人公のプロフィール以上の意味があります。

 最後に、お小遣いの管理は、しっかりと、ね。

 

『七時間目のUFO研究』

 

あなたはUFOを信じますか?
6年生のあきらと天馬は、2人でロケットを飛ばしている。……といっても、ペットボトルで作ったものだけど。実験中、天馬が偶然UFOを目撃したからさあ大変!新聞記者やテレビ、怪しげなカウンセラーまでやってきた!ひとりの記者と知り合っていろいろ話すうちに、あきらの中で宇宙への思いが熱くなる。

  シリーズの中で最もジュブナイルとして洗練されており、少年の葛藤と自立の始まりを、怪しいオカルト話への懐疑とリンクさせて描いています。「静かな過疎の町」「少年の自立」「ロケット」という舞台装置もロマンがありますね。恐らく作者もノリノリで書いたのでしょう、作中に登場するオカルト番組の名前は「デムパの沼」、番組に登場するUFOカウンセラーは「アダムスキー江尻」と筆が滑ってる感さえあります。

 本書では怪しげなオカルトにはまり込んでしまう人の心についての描写もあり、わからないことをわからないと認めることの大切さについて登場人物が言葉を交わしています。

「ああ。簡単に理解できて、道徳的に正しくて、受け入れやすい答えを聞けば、人は安心できるんだ。自分で宇宙について考えようと思ったら、ビッグバン説を理解するために、まず一般相対性理論を勉強しておく必要がある、物理の基本的な知識を学んで、量子力学とか専門的なことも勉強して……数学もできないといけないし……。そういうことを自分で考えるのが、しんどくて、面倒な人は、宇宙の秘密を知っているというアダムスキーさんみたいな人にたよりたいと思うんだろうね。」

 ここでちょっと凄いのは、ではデムパの沼のようなオカルト番組を楽しんでいる人は馬鹿で愚かで邪悪でAmazonで「どじょうすくい5点セット」を10セットも誤発注してしまうような人達なのかというと、そうではなく、あやしい番組のファンのような人もまた心優しく生真面目な良き人々であることが描かれているのです。

 また、シリーズを通して「そもそも~とはどういうことだろうか?」と考える姿勢を示しており、本作では「信じる」とはどういうことかについて踏み込んでいます。

「信じる……。信じるって、どういうことだろうね。少しもうたがわないってこと?」

 灰原さんは口の中でくり返して、つぶやく。

(略)

「自分では本物のUFOなんて見たことがない。けれども、遠い星に未知の生命体が存在していて、ふしぎな乗り物に乗ってこの地球に来ているかもしれない……という可能性を否定できないから、ぼくはUFOを探しているんだ。UFOを信じている人っていうのは、UFOがいると決めつけている人だよね。そういう意味では、ぼくは『信じている』とは言い切れないかもしれない。」

「どういうことですか?」

「だって、もし、UFOがいると信じていれば、探す必要なんてないから。」

 

 繰り返しになりますが、子供向け文庫レーベルから刊行された児童書であり、確かに子供が読めば、科学リテラシーの芽生えのきっかけになり得る小説シリーズです。しかし、まずは大人が読めと思います。おもしろいですから。

 

竹ザル・竹ビク付! DVD 今日から踊れる どじょうすくい 5点セット

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私を芸術家にした怪物たち―『センダックの絵本論』

『センダックの絵本論』を読みました。

センダックの絵本論

センダックの絵本論

 

 モーリス・センダックの絵本で最も知名度が高いものといえば、本邦においては『かいじゅうたちのいるところ』だと思われますが、絵本界の三大不気味書のひとつ『まどのそとのそのまたむこう』もセンダックの代表作です。三大不気味書ってはじめてききましたね。ほかの二作品が気になるところですが、ともかく、『まどのそと』は気色悪いゴブリン、氷の赤ちゃん、不在の父の手紙、虚ろな瞳の母と不気味の福袋みたいな絵本です。

まどのそとのそのまたむこう (世界傑作絵本シリーズ)

まどのそとのそのまたむこう (世界傑作絵本シリーズ)

 

そんな不気味な名作に登場する赤ちゃんと、その赤ちゃんのおもりを押し付けられた姉のアイダは何者なのか?そもそもこの不気味な話は何なのか?

大変に深い謎のようですが、センダックがかなりあっさりと答えを語っています。センダック自身による言葉だけで編まれた評論と随筆集『センダックの絵本論』にそれがあります。

もうひとつ考えていたのは、姉のナタリー―私より九つ年上で、私の世話をさせられていたナタリーのことでした。(略)私は姉の悪魔的な怒りを覚えています。一九三九年のニューヨーク万国博覧会で、彼女が私を置き去りにしたことも覚えています。その一方で、彼女が私を心から愛してくれたことも覚えています。ただ、両親がどちらも仕事に追われていて時間がなかったために、私は否応なしに彼女に押し付けられてしまったのでした。それが『まどのそとのそのまたむこう』の状況です。(略)

彼女は赤ん坊を愛しています。憎むのはほんの時どきのことにすぎないのです。最終的にはあの本は、アイダである私の姉への――とても勇敢で、とても強く、とても恐ろしく、私という赤ん坊を世話してくれた姉への、心からの捧げものにほかなりません。

ナタリーさん、評論の中でもたびたび登場しており、幼いセンダックのすぐそばにいつもいたのであろうことがうかがえます。

 

『まどのそと』はセンダック自身が大変気に入っている作品で「あの本のほとんどは、子どものときに私を脅えさせたものをもとにして作られてい」るそうです。例えばそれは幼い時に見た暴風雨にあった少女の出てくる本、そして1932年に起きたリンドバーグ誘拐事件。

飛行士リンドバーグの1歳の長男が誘拐された事件は当時「アメリカ人全員の共通の記憶であり、何にも増して私たちに精神的外傷を与えた体験のひとつ」であり、幼いセンダックは自分と誘拐された赤ちゃんをごっちゃにしていたようです。そしてリンドバーグ事件の恐怖から『まどのそと』は「あの本の中で、私はリンドバーグの赤ん坊であり、姉が私を助けに来てくれた」ことによってセンダックを解放してくれたのです。

この随筆ではその他にもセンダックの怖いものがいくつも具体的に挙げられています。両親、姉、リンドバーグ事件、古い映画、学校、そして電気掃除機。実は『かいじゅうたちのいるところ』のかいじゅうの正体も、センダックの身近にいる恐ろしいものだったのです。

それは多分、ブルックリンでしばしばくり返されたあのぞっとする日曜日の記憶――だれ一人として特に好きではなかった伯母や伯父たちが来るというので、姉も兄も私も正装しなくてはならなかったあの日曜日の記憶から出てきたのだと思います。(略)

ですから結局、「かいじゅうたち」はあの伯母や伯父たちであったようです。

 

『センダックの絵本論』は絵本論というだけあって、コールデコット論、アンデルセン論、ポター論、ウィンザー・マッケイ論などの数多くの評論が収められているのですが、なかでも印象的なのがウォルト・ディズニー論です。

ミッキー・マウスとセンダックは誕生年が同じで、名前の頭文字が同じ。当時山ほどいた子役の映画スター(シャーリー・テンプルやボビー・ブリーンのような)と違い子供に劣等感を抱かせることがない、最高の友であったミッキー。「燃えるように激しい生気に満ちた、おそろしく風変わりな顔」の「想像力に強い影響と刺激を与える」あのネズミ氏に強い友情を感じたセンダックは『まよなかのだいどころ』の主人公にもミッキーという名を与えています。

そして、第一の親友であるミッキーの、ディズニーの、その後の変貌への軽蔑もあらわにしています。

彼は通りの遊び仲間を見捨てて郊外住宅に住みつき、不恰好で心のない享楽主義者になってしまいました。それらの微妙な変化、ときには微妙とは言いがたい変化が、ミッキーを芸術の世界から商売の世界へと押し出してしまいました。(確かにミッキーは最初から商品ではありましたが、今では見かけからして商品そのものです。)

かつての親友ミッキーの堕落を語る時の鮮やかなこと。

センダックは『まよなかの』に登場する料理ストーブにミッキー・マウスを描きたいと思ったのに、ディズニースタジオに拒否されてムカついたという記録もあります(流石にそれは無理だよ、相手がディズニーだもん)。

センダックにとっては気に食わないミッキーの気質も「全米代表選手風の」「あのお国自慢的性格」となんとも味わい深い批判です。それはちょうど、よくアメリカという国に対して投げかけられる嫌悪とも似ています。アメリカが生んだセンダックが、アメリカを見事に批判しているようで、おもしろいのです。

『センダックの絵本論』はセンダックの作品をたのしむ道しるべでもあり、同時にセンダックの眼から見たアメリカ論として読むこともできると思うのです。

 

まよなかのだいどころ

まよなかのだいどころ

 

 

かいじゅうたちのいるところ

かいじゅうたちのいるところ

 

 

海の五角形、棘皮動物―『ヒトデ学』

小説を読んでいて新しい登場人物が出てきたとき、その姿を思い浮かべてみる。しかし、それがうまくイメージできない時もあります。テッド・チャンの『あなたの人生の物語』に登場する異星人ヘプタポッドはなかなか思い描きにくい姿をしていました。曰く、七本の肢をもつ放射相称で、四本脚で歩き回り、残りの三本の肢は腕として使っており、脚と腕は隣り合っていない。謎多き姿の異星人は、とりあえず放射相称ということで巨大なヒトデみたいなものでしょうか。

 

ヒトデ。水族館で動物と触れ合えるタッチプールに常駐している。海の絵を描くならば、片隅にとりあえず星形のあいつを描いておく。存在感がありながら、しかしあまり意識したことはありませんでした。

ヒトデは「棘皮(きょくひ)動物」の仲間だといいます。その棘皮動物とはどんなものなのでしょうか。日本語で書かれた入門書は無いかと探してみたところ『ヒトデ学 棘皮動物のミラクルワールド(本川達雄 編著)』がとてもとっつきやすく、面白い本でした。

ヒトデ学―棘皮動物のミラクルワールド

ヒトデ学―棘皮動物のミラクルワールド

 

 

『ヒトデ学』は編者をはじめとする棘皮動物の専門家たちが、日本語での入門書がないことを嘆き、学生やダイバーがすらすらと読める縦書きの本を作ろうと目指して誕生したもの。その試みは結実し、専門書でありながらもとても読みやすく、棘皮動物の世界を概観でき、この手の本にしてはお財布にも優しいのです。

 

棘皮動物の専門家たちの愛がこれでもかというほど詰まっているこの本、例えば随所に研究対象への愛が輝き、ヒトデの空腹については「もっとも、もっとお腹が空いたときは餌を探すというよりは、ただひたすら寝てしまって、エネルギーを温存しようと寝床にしけ込む場合が多いようだ」という表現になるし、ウミユリの生態については「いたって謙虚な生き物」であり「けなげな作戦で生き延びている動物なのである」と語られ、海岸で見つけにくいクモヒトデは「クモヒトデははにかみやで、岩の下や泥の中に隠れて棲んでいることが多いのでお目にかかる機会はそれほど多くないかも知れない」と紹介されます。

巻末付録として、棘皮動物の分類表、棘皮動物かぞえうた(作詞作曲は編者)、参考文献がおさめられています。ちなみに、同じ編者の『ウニ学』にはやっぱり編者作詞作曲の「ウニの棘」が収録。*1

 

棘皮動物の分類

 現在生きている棘皮動物は五つの網(「網」大きな分類の単位)に分類できる。ウミユリ、ウニ、ナマコ、ヒトデ、クモヒトデがそれです。

ウニやヒトデ、ナマコは海岸で目にしますし、水族館のタッチプールでぷよぷよしているので目にすることも多い。クモヒトデは岩の下や泥の中に隠れているので、やや遭遇しにくい。そしてウミユリ類は茎をもつものになると深海にしか生活していません。

では棘皮動物はずっとこの五網だけなのかというと、古生代の海底は棘皮動物だらけで、二十もの網が繁栄しており、特徴的でへんてこで、面白い形のものもいろいろいらしい。体長20メートルにも達する巨大なものもいた。系統関係はまだよくわかっていない。中生代には現生五網になってしまったが、化石記録から最初に棘皮生物が登場したのはカンブリア紀中期だということがわかっている。先カンブリア時代にも怪しいものはあるものの、軟体部といわれる細胞などの組織からなる部分が化石には残らず、棘皮動物の特徴の一つである水管系があるかどうかを調べることが困難。

 

棘皮動物の特徴

棘皮動物というのは一つの「門」の名前です。

棘皮動物はほかの動物門ではみられないユニークな特徴ばかりで、容易にほかの動物から区別できます。「棘皮動物とは、動物学者を不思議がらせるために、特別にデザインされた高貴なる動物群である(byリビー・ハイマン)」というくらいに、ユニーク。

1.五放射相称

体が五放射相称、つまり星形や五角形をしている。中心の軸の周りに五つの同一の構造が放射状に配列している。現生のすべての成体にあてはまる。一見左右対象に見えるナマコとウニも五放射相称からの二次派生。ウニなんてボールに棘が生えたみたいで、ちょっと五角形には見えないかも知れませんが、棘を取ってしまうと五放射であることがよくわかります。

七放射相称や九放射相称の体制も過去には何度か進化しましたが、これもやっぱり五放射からの変形。

なんで五なのかというのは、変態直後の骨格強度を維持するためとか、摂食効率がよいとか、球体を覆うならサッカーボールみたいに五角形が適切だろうとか、いろいろ説があります。

2.皮膚内に多数の骨片が埋まった構造の骨格系

小さな骨片はスポンジのような微細構造を持つ。色々と形を変えて体を覆ったり、棘になったり、ピンセット状の叉棘になったりもする。表皮のすぐ下にあってまるで外骨格のように働く。棘はとがって突き出しているけれども、あくまで表面には皮膚があり、棘が皮膚の下に埋まっている。

3.皮膚の硬さが可変

棘皮動物の皮膚はドロドロに融けるほど軟らかくなったり、カチカチに硬くなったりと皮の硬さが変化する。骨片がコラーゲン質の靭帯で結合されているのだが、その組織(キャッチ結合組織)が神経の作用によって短時間で変化することが可能。しかも変化は可逆的。この特性により、エネルギーをあまり使わずに強力に姿勢を保つことができる。ウニが長い棘を立て続けられるのも、このため。

ちなみにナマコはこの皮(結合組織)が体の大部分を占めている。

4.水管系をもつ

水の詰まった管の系は、末端が多数の管足として体表面から突出し、運動、摂食、呼吸などにおいて重要な役割を果たす。

動物においては水圧で動くシステムというのは珍しくはないが、表面にこれほど広く水圧で動くものを配置しているのは棘皮動物だけ。

 

その他、棘皮等物の特徴は

  1. 海にすむ。海にしかすんでいない。
  2. 神経系はあるが中枢化してない。脳と呼べるものがない。
  3. エネルギー消費量が極めて少ない。
  4. 幼生期は浮遊し、成長すると底性になる。

などが挙げられる。

 

あなたの人生の物語 (ハヤカワ文庫SF)

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*1:ウニが球形の動物の代表として登場する『生きものは円柱形』では「円柱えかきうた」をはじめとする3曲が登場し、出版社のホームページで著者による歌を聞くこともできる。できるのです。

かはくさんぽ―国立科学博物館

かはくさんぽ(0)はじめに

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国立科学博物館 日本館 ネオルネサンス様式の建物自体が国の重要文化財 正面には神殿のような石の柱。 

 

上野の「かはく」こと国立科学博物館といえば老舗で大御所で超有名博物館。解説書籍もネット上の見所案内も充実しており、いまさら何か語る必要はないのですが、来館者の数だけ楽しみ方はあると信じて、私流の「さんぽ」の仕方をお伝えできればと思います。

 

国立科学博物館 National Museum of Nature and Science,Tokyo

国立科学博物館 日本館 ストリートビュー

 

かはくさんぽ(1)恐竜展示をじーっとみる

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地球館1階 地球史ナビゲーター 生命史の代表選手としてアロサウルス。1964年に日本初の全身復元骨格として公開された老舗骨。2015年7月の地球館リニューアルオープンにあわせて尻尾を地面から上げる形に直して再登場。

かはくと言えば恐竜展示、恐竜展示といえば迫力満点の全身骨格、といいたいところですが、まずは地球館地下一階のこちらがお勧め展示。ヒトと始祖鳥の全身骨格が並べられている。なんだか楽しそう。ヒトと、恐竜と鳥との懸け橋である始祖鳥。脊椎動物って骨にしてしまうとよく似ていますね。

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もちろん迫力の全身骨格もあります。中央に見えるトリケラトプスは非常に完成度の高い実物化石。地中に横たわった時の状態を残しての展示。

トカゲなどの爬虫類と恐竜のちがいを全身骨格から見つけられるでしょうか。ワニやトカゲなどの爬虫類は、体の横に突き出した足で這って歩きます。恐竜の骨格を見てみると、足は体の下にまっすぐ伸びていますね。直立歩行は重い体を支えるのに適しているので、これこそが恐竜が巨大化の一因とも言われているそうです。

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解説板にも面白いことが書いてあります。「史上最小の恐竜は何だろう?」

これまでに発見されている最小級の恐竜は50cm程。しかし、鳥が恐竜の直系の子孫であると考えるならば体長2㎝程のハチドリが最小の恐竜と言えるのだ、というちょっとアクロバティックな答え。

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かはくさんぽ(2)ほにゅうるいが あらわれた!

恐竜展示もいいけれども、我らが哺乳類はどうなのか。

地球館地下2階に行ってみましょう。ここでは恐竜絶滅後に爆発的に進化した古代の哺乳類に出会えます。この巨大生物はインドリコテリウム。草原に適応した史上最大の陸上哺乳類。

大きな角や牙を持ちながらも木の葉を食べていた大型哺乳類や、牙が下方向に二本はえた象、首が長いサイのような巨大生物、そしてマンモス…こんな変てこ哺乳類が地表を闊歩していた時代があったのですね。

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約3億年前に陸上へ旅立った爬虫類と哺乳類の中には、再び生活の場を水中に戻したものもいます。かれら水生爬虫類と水生哺乳類の全身骨格もこの地球館地下2階で見ることができます。恐竜以外の巨大生物もおもしろい。

 

ちょっと骨を見飽きたなと思ったら、地球館3階へ移動してみましょう。

野生生物の毛むくじゃら剥製群です。

剥製なんて…近くに上野動物園あるし…とお思いかもしれませんが、ガラス越しではあるもののすぐそばに近寄って観察できるのが剥製の利点。

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 絶滅動物、絶滅危惧動物のエリアにはニホンオオカミの剥製もあります。現存する剥製標本はたった三点(かはく、東京大学和歌山県立自然博物館)という大変に貴重なもの。和犬に似た顔つき、小さな黒い目が可愛らしい。近くにいるコヨーテと比較してみるのも面白いかもしれません。

 

そういえば動物のグループ分けや命名ってどうやってやっているんでしょう。

ちょっと地味ながら解説板がありました。ふんふん。

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かはくさんぽ(3)ご先祖様、こんにちは

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地球館地下2階の霊長類の全身骨格模型。どれがヒトでしょうかクイズみたいになっている。オラウータンとの区別がつきますか。

霊長類の中から誕生した人類の祖先、直立二足歩行のユニークな動物。そんなご先祖様の歩みも探してみます。地球館地下二階には人類の進化に関するコーナーがあります。足を踏み入れるとそこには…こちらを指さす小さな人!

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こちらを指さすのはアファール猿人の「ルーシー」です。ホモサピを見つけてひたすら驚いています。隣のとても背の高い原人少年「トゥルカナ・ボーイ」は驚きつつも興味津々といった様子。一番奥のネアンデルタール人の男性は槍を持ったまま冷静にホモサピを観察しているようです。この展示は、現代にやってきた古代人たちが私たち来館者と出会った時の様子を想定して演出しているもの。

人類と言っても身長も手足の長さもバランスも、持ち物も、そして恐らくは未知のものへの反応も様々。

 

地球館1階 地球史ナビゲーターには古代人たちの頭骨レプリカにまぎれて、貝殻のビーズが展示されています。アフリカ南端ブロンボス洞窟で発見された人類最古級のアクセサリー。約7万5千年前に、人類は身を飾り、そしてそのことが仲間の中でなんらかの意味を持っていたことを表しています。

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こちらは日本館 2階北翼での日本人の歴史コーナー。

港川人、縄文人、弥生人、中世人、近世人…とかつての日本人の暮らしぶりを見ていくと、展示物のないガラスケースがあります。これは来館者が中に入ることで現代人の展示物になれてしまう。かはくジョーク。

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 片隅にあるのは縄文時代の10代後半とみられる女性の骨。恐らくは小児麻痺で一生涯寝たきりだったと思われる。彼女の生涯は縄文人が仲間を介護した証拠。

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かはくさんぽ(4)地球のひみつを探れ探れ探れ

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地球館2階 観測ステーション 地表の温度、水蒸気量、地磁気変動などの観測データが準リアルタイムで更新されている。気になるデータに手を伸ばして映像を拡大できる。やたらにカッコイイ部屋。

体験型展示もかはくのお楽しみです。

地球館2階に移動しましょう。ここは科学技術による地球の観測を主軸に、物理分野の展示がたっぷり。

 

電波の性質を身近なもので体感できる展示。

材料は金属のザルとラジオ。

電波は導体で反射するので、FM放送のラジオに金属のザルを被せるとザーッとなり、地デジ放送のラジオに被せるとぴたりと音が止まる。

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こちらも体験型展示の地震震源地と震源の深さを推測するブース。モニターの周囲の複数の椅子が地震の観測所代わり。椅子の揺れたタイミングから地震発生箇所を探しましょう。

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地球の観測と言えば人工衛星。地球館1階にひまわり1号の予備機が展示されていますが、人工衛星と一言にいっても、目的によって軌道はいろいろ。

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地球磁気の逆転した78万年前の地層実物標本や、八木・宇田アンテナを操作できるコーナーもあります。

 

体験型展示だとひっそりとこちらもお勧め。地球館地下3階での分子の性質についての展示。分子の世界という小さな世界での左右が、私たちが感じることのできる大きな違いとなってあらわれる。

メントールのL体とD体のにおいを嗅いで比べてみましょう。くんくん。

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かはくさんぽ(5)建物だって付属施設だって楽しい

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かはく平面図。日本館は当時の最先端科学の象徴たる飛行機の形をしている。

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博物館の建物自体も見どころです。昭和6年竣工の日本館は国の重要文化財。内装はこんな感じ。ステンドグラスがうつくしい。

 

かはくには勿論レストランもあります。地球館中2階にある「ムーセイオン」は窓際の席に案内されると展示(地球館1階系統広場)を見ながら食事ができる。

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シェフおすすめメニューを注文してみました。大きなマカロニはアンモナイトを模してるのかしら…ダイオウイカかしら…。


博物館といったらミュージアムショップもたのしみのひとつ。各種の宇宙食やフラスコなどの実験器具、カンブリア紀生物ぬいぐるみ、忠犬ハチ公クッキーなどが所狭しと並び、ちょっとマニアック過ぎないかと勝手に心配になる。

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こちらはお店の看板娘恐竜のテラちゃん。のらないでくださいと書かれている。のらないであげてね。


評価されない人気者―『二人でノンタン』

 墨の線はまっすぐではなく、ぶるぶるふるえているような線ですが、決して緊張のために手がふるえたわけではありません。最初、ネコのふわふわした毛並みの感じを出そうとして描いたもので、画面全体も柔らかなものにするため、建物も花も木もみんな動物と同じタッチでまとめたものです。

 子供の頃に、お風呂に肩までつかって「おまけのおまけのきしゃぽっぽー」と歌ってよく温まってから上がっていました。ノンタンが絵本の中で唱えていた言葉です。ノンタンの絵本は、ミリオンセラーの絵本の中に何冊もランクインしており、最も出版数の多い『ノンタン ブランコのせて』は現時点で243万冊の売れっ子です。そして、それほどの人気でありながら、保育園や絵本の研究会などで配られる絵本リストではあまり見かけないのです。子供に大人気なはずの絵本シリーズなのですが、各種絵本ガイドで評価されていないように思えます。

 不思議だなと思いつつも、子供に読むためにノンタンの絵本を購入してみたのですが、親世代である私が懐かしく感じるような古いノンタン絵本と、新しいノンタン絵本では雰囲気が違うように感じる…。ぶるぶる震えた線で描かれるノンタン世界。その震えた線も、古いシリーズでは柔らかさと子供の躍動感を表現しているように感じられるのですが、新しいものでは線が乱れているように見えてしまう。背景の絵もどんどんと減っており、立体的な絵による展開(例えばノンタンが建物の側面に歩いてまわりこむ等)も今世紀に出版されたものからは見られなくなってくる。

遺作となった最新作『ノンタン スプーンたんたんたん』はノンタンがご飯を食べて大きくなり星や月や太陽を食べてしまおうとするお話ですが、豪快で無邪気ではありますが、幼い子供が感情移入する余地があまり感じられません。

 

 なによりも、作者の名前が「大友康匠/幸子」の共作から「キヨノサチコ」に変わっていることが大きな違いです。

これはノンタンの作者である大友康匠さんと大友(清野)幸子さんの離婚後に、著作権に対しての双方の認識の差異から起きた「ノンタン絵本裁判*1」をうけてのもの。「童画界のおしどり夫婦」での共作であると思われていましたが、現在ではストーリーの筋書きから主要登場人物の造形までキヨノ氏の単独作成であったということになっており、作者名は全てキヨノ氏の名前のみとなっています。

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  裁判の中でも登場するのが離婚の3年前に書かれた『二人でノンタン』です。ノンタンの制作話から、シリーズの誕生の過程、そして大友夫妻の出会いと結婚、絵画教室の開講、結婚後七年目の妊娠と出産…という二人の作家の結婚生活のエピソードが書かれています。

  果たしてノンタンは本当にキヨノ氏の単独作品だったのか。本書においては共作であるということが印象に残る描かれ方をしています。例えば『ノンタンおよぐのだいすき』のストーリーを考える段階では、「いよいよ戦争開始!」と夫婦が格闘しながら話の肉付けをしていく様子があるのですが、これが、なかなか激しいのです。

ミスターノンタンは実は自分の絵コンテの方が面白いと自信を持っていますから、面倒くさそうにペラッペラッとページをめくります。そして、ちょっとでも気にくわないところがあると、やおら赤鉛筆を取り上げ、父の敵!とばかり、満身の力をこめて大きく「×」を描くのです。赤×だらけになった絵コンテをミセスノンタンに突返し、
「もう一度、じっくり練りなおしたほうが良いみたいだね、うん」
「………」
「三十二頁も使って、こんなのじゃ間のびしちゃって面白くないよ」
「………」
「君はまだまだ基本ができてないんじゃないかな。絵もストーリーもアマチュアの域を脱するのはこの分だと何年先のことか。シビアな現実を見つめなきゃ。釣りあげた魚は恐ろしい顔をしていた、それで皆が驚いて逃げる。そもそも君の考えたこの幼稚きわまるストーリー自体に問題はひそんでいるんじゃないかな、うん」
「………」
「僕はたちどころに『おにごっこ』と『かくれんぼ』『まいごになったノンタン』の絵コンテを作ってみたんだ。君が一つ描いているあいだに三つも話を作る、これはプロとして当然のことだろうけどね。まあ見てごらん」

 ミスターノンタンこと大友氏の駄目出しに、続くのはミセスノンタンことキヨノ氏の反撃です。

「こんなひどいでたらめなこと描いて、よく平気ね。自分で何描いたか知ってるの。なんでノンタンやうさぎさんが、ああ疲れたってコーヒーを飲まなくちゃいけないのよ?読者は子供なのよ。子供がコーヒーを飲むわけないじゃない」(中略)
「がみがみいわずそこのところ赤鉛筆でチェックしておけばいいじゃないか」
「このおにごっこのお話なんだけど、確かに子供がよく遊ぶものには違いないけれど、ノンタンの腕白ぶりがまるっきり出てないと思うわ、こんなストーリーじゃ子供が胸をわくわくさせて読んでくれないわね。保証するわ。かくれんぼのストーリーだって同じよ。まいごのお話はノンタンがぶらんこで見せたあのノーティーな性格がぜんぜん出ていないし、後半は泣き虫ノンタンになっちゃってるわ。私たちが作ったぶらんこのノンタンだったら、まいごになったって、歯を喰いしばってもっと頑張ってお家に帰る筈でしょ。あなたは思いつきだけでストーリーを作るから、登場するキャラクターの性格がでたらめになっちゃうのよ」

  この後、本気で怒りあった末に大友氏が家を飛び出し、それを「逃げるのね」とキヨノ氏が追いかけるという顛末です。

f:id:chiba8:20150824223114j:image絵に関しても、朝型生活のキヨノ氏が、夫が眠っている間に「誰にはばかることなく思う存分塗りたい色を塗っ」た後に、今度は夜型の大友氏が「ミセスノンタンが塗ったバックの葉っぱの色が、若草色から深緑に変えられているのです。花の色もスカーレットからピンクに、バックもブルーから紫に、すっかり塗りかえ」てしまうというように、お互いに納得がいくまで塗りかえを行った末に完了するそうです。「ああしんど。」と書かれていますが、まあ、そうでしょうね。

全体的にこのノンタンの制作裏話は、夫婦の間での戦いの様子が描かれており、これをこのまま読めば「情熱的にノンタンの絵本制作にとりくんだ」とも感じますが、この後の離婚と訴訟を知った上だと、ノンタンこそが夫婦の関係を摩耗させる要素であったのかもしれないとも思ってしまうのです。

内輪の話、夫婦だからこそ死闘に近い戦いがあり、一つの作品が出来上がっているのですが。 

  ノンタンといえば、わんぱくな白い子猫の男の子です。道徳的で模範的ないい子というよりは、自己主張と無邪気さの塊で、幼児らしい造形です。この溌剌としたキャラクターの性格はどこからきたのだろうと思って読んでいると、キヨノ氏の言動を子猫にすると、そのままノンタンになるのではないかと気付きます。結婚後にトンガに3か月の一人旅に出た際の旅行記があり、異国の地でのびのびと歌って踊って剣を振り回しています。 

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 帰国後も合気道を習い始めたり、クリスマスに一喜一憂したりというエピソードがあります。どちらかといえば内気でインドア派の芸術家肌である夫とは対照的に、積極的な行動家といったイメージです。

 ならば、やはりノンタンの作者はキヨノ氏単独ということなのでしょうか。2000年以降の新しいノンタン絵本から感じた、古いシリーズとの雰囲気の違いは気のせいなのでしょうか。

 大友氏はもともとはキヨノ氏の絵の先生です。大ヒットと呼べる作品はないにせよ、ノンタン以前でも充分なキャリアのある画家です。高校時代に美しい後輩の美少女にモデルをお願いして熱心にスケッチしたことが画家人生のスタートとなったと語られており(ちなみにこの時の美少女は女優の小山明子さん)、絵のアルバイトの体験談や旅行中に熱心にスケッチをしたエピソードがあります。

 

 裁判ではっきりと決着がついたように、キヨノ氏の単独作品だったのか。本書を読むと、やはり、大友氏の影響がノンタンに全くなかったとは言えないように思うのです。絵本において絵は、非常に大きな要素です。絵の巧みさがストーリーに影響を与えることもあり得るでしょう。洗練された絵を描く、絵の師匠たる大友氏の影響は無視できないのではないでしょうか。

また、単調で地味なストーリーには「子供が胸をわくわくさせ」ることはありませんが、あまりにも突飛でイマジネーション重視のお話には子供はうまく感情移入ができません。子供向けのストーリーには難しい匙加減が求められますが、大友氏とキヨノ氏の「血で血を洗う戦い」こそがその難しさを乗り越える力となったのではないかと想像してしまいます。もちろん「影響を与えた」からといって名前をクレジットしないといけないということはありませんが。

 

 売れ行きと子供の人気に反して、あまり評価されない印象のあるノンタンの絵本シリーズ。その評価されなさの背景には、もしかしたら、裁判で白黒つけてしまったことにより零れ落ちてしまったものがあるのかもしれません。

 

二人でノンタン (1982年)

二人でノンタン (1982年)

 

 

猫はサイエンスがお好き―『真夜中に猫は科学する』

 真夜中に行われる猫の集会と言えば、ミュージカル「CATS」が思い浮かびます。舞台だけではなく客席にも自由自在に登場する猫たちが主役で、人間の登場はありませんが、舞台の存在そのものから猫という生き物に対する人間の特別な愛情(ちょっと片思いっぽい)が感じられます。

 ところで、猫たちは普段の集会ではなにをしているのでしょうか。夜な夜などこかで集会をしている猫たちは、なんと科学講座を開講していた…というのが『真夜中に猫は科学する』というサイエンス猫本で明らかになりました。本書の性格は意外に複雑で、小説でありながら免疫や遺伝についての一般向けのお勉強本となっています。構成と登場人猫物も慣れるまでは戸惑います。語り手の「わたし」及び「先生」は人間で、夕方に科学についてお喋りをします。そしてその夜に猫たちの集会で、猫のみ参加の科学講座が開かれます。翌朝、また人間2名のお喋りがあり…というのがひとつの章の構成です。場合によってはここに、猫の座談会形式の補講がつきます。語り手である「わたし」の名前がキミであるため二人称かと勘違いしたり、登場猫一覧は巻頭にあっても、人間の登場人物のそれはなかったり、猫の品種名が特に注釈なく登場するため、読み始めは戸惑いもありました。

 しかし、魅力的な猫たちの科学講座に参加しているうちに、それらは全く気にならなくなります。一般向けのサイエンス本は数多く存在していますが、本書の特徴のひとつは個性の強い猫がお喋りをしながら勉強をしていくということです。

猫たちの科学講座(アカデミー)の顧問役は「教授」と呼ばれる知的だけれどもちょっと乙女心には鈍感な、こげ茶のふさふさ毛の猫エクレア。幼馴染でワイルドな雰囲気なのに名前は可愛いキララ。喧嘩ばかりしている兄弟コタロウとレオ。勘違いと聞き間違いの多いサスケ。その他大勢の猫たちは個性的で、彼らのお喋りはちょうど、学校の同級生たちのようです。級友たちが、授業中に先生の説明に合いの手を入れたり、とぼけた質問をしたりした結果どんどんと授業が盛り上がり、ただひとりで教科書を読むよりもずっと内容が頭にはいってきました。「そういえばA君が招き猫は三毛猫だけれどもオスみたいな顔をしていると、遺伝の法則の授業の時に言ってたっけ」なんてお喋りの思い出が、授業内容の記憶のトリガーとなっていることもあります。にぎやかな猫たちの集会は学校の授業の「脱線」(教科書から少し外れた先生の話の方が、なぜか強く印象に残っているということがありませんか)のようです。

 生ワクチンと不活化ワクチンの違いや(ヒトの風疹ワクチンはウサギの細胞で増やすことでヒトに感染しにくいタイプになるというのはおもしろいです!)免疫の暴走、ES細胞とiPS細胞について、よく耳にするけれどもごっちゃになりやすい遺伝子、ゲノム、DNA、ヌクレオチドについての整理など、猫たちのお喋りを楽しんでいるうちに学べるのが嬉しいです。

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 猫たち皆が物分かりの良いというわけではなく、なかには読んでいる私と同じように、理解に時間がかかる猫もいるので説明図や補講、身近な例などでわかりやすく講義が行われるのもありがたいです。「インフルエンザ菌とインフルエンザウイルスの違いは?」という問いに「えーと、名前が違う?」と思いながらページをめくったら、猫のサスケが元気よく「えっとー。名前が違います」と言っていたのには思わず笑ってしまいました。

 読み終わる頃には次回のエクレア教授の講義で取り上げてほしい話題や疑問がいくつも頭に浮かんできており、猫たちとのお別れをさびしく感じます。どこかでまた会える機会を待っています。

 

(猫の画像は本からのイメージです)

 

真夜中に猫は科学する エクレア教授の語る遺伝や免疫のふしぎ

真夜中に猫は科学する エクレア教授の語る遺伝や免疫のふしぎ

 

 

男の子と女の子の『妖怪ウォッチ』

 本屋の絵本コーナーの片隅には子供用雑誌が置かれており、先日久しぶりにのぞいてみたら驚きの赤。小学館学年誌である『幼稚園』『小学一年生』『小学二年生』は全て表紙に赤い猫のキャラクターが描かれている。そう、昨年2014年に子供世界のカルチャーを完全に塗り替えた『妖怪ウォッチ』のジバニャンが学習誌の表紙を占拠しているのです。(『小学一年生』バックナンバー『小学二年生』バックナンバー『幼稚園』バックナンバー 参照)

 

 妖怪ウォッチの人気は静かな我が町の保育園にも広がっており、保育園では兄貴・姉御な4歳児や5歳児は男女問わず『妖怪ウォッチ』の歌やダンスが大好き。既に4歳ともなると、男女別れてグループを作りがちなようですが、妖怪ギャグを披露しあって男児も女児も転げまわって喜んでいる。

 

 私は最初はこの爆発的な人気をちょっとうがった見方で眺めていました。ポケモンのように妖怪を蒐集するゲームであるとか、主人公の友人関係がドラえもんと相似形だとか聞くたびに「ふーん、二番煎じ作品ならそんなに長くは続かないよねー」と思っていた。しかし、子供の保育園でも「ようかい体操第一」を踊り始めたと聞いてにわかに興味が。食わず嫌いはよくないと思いゲームをやってみると、登場キャラクターが非常に好感が持てる。そしてついつい、無料配信していたアニメのバックナンバーも見てしまいました。ジバニャン*1、可愛い…。

 基本的なストーリーはとても単純。日常の中のちょっと困ったことが、実は妖怪の仕業であり、主人公の小学生ケータ君が妖怪ウォッチという妖怪が見える時計型アイテムを使って原因となっている妖怪の姿を探し当て、説得によって解決するというものです。ドラえもんポケモンに似ている点があるということで、実際に見る前はあれこれ勝手に想像して遠巻きに見ていたのですが、とてもおもしろいです。

 

 ポケモンドラえもんに似ているというのは、昨年からさんざん指摘されています。仲間にしたポケットモンスターを呼び出し、ポケモン同士のバトルで勝利することで、倒したポケモンを新たな仲間としてゲットしていくポケモンの世界観は、ゲームにマッチしており、現在進行形の歴史的名作でしょう。このゲーム性を『妖怪ウォッチ』も基本的には取り入れています。そして、『妖怪ウォッチ』の主人公・天野ケータとその友人達の関係はドラえもんとそっくりです。のび太がケータ君とするならば、ジャイアンのように体躯の立派なガキ大将のクマ、スネ夫のように小柄でお金持ちなカンチ、しずかちゃんのようにしっかり者の美少女フミちゃん、そしてのび太の家の居候の猫型ロボットは猫妖怪のジバニャンでしょうか。しかし、ポケモンにもドラえもんにもよく似ていながら、現代の子供たちに受け入れられやすい要素が『妖怪ウォッチ』には多くあります。

 

 ドラえもんは子供を主役にしたドタバタ喜劇であり、同時に優れたSF漫画でもありますが、一人の人間の結婚を描いた大河漫画でもあります。記念すべき第一話で未来からやってきたドラえもんは、のび太の悲惨な将来を学校は落第、就職できず、興した会社は倒産と並べていくが、その最たるものとして語られるのが、結婚相手がジャイ子ということ。大河恋愛漫画としてドラえもんを見たとき、最大の敵はブスな女の子となる。ドラえもんが未来から来た理由は、ブスからのび太を救うためです。凶暴なジャイアン、財力をひけらかすスネ夫、女友達がいないしずかちゃん。改めて振り返ってみると、現代的価値観からは残酷な話に見えてしまう。

 ポケモンではバトルによって打ち破ったポケモンを、不思議なボールの中に封じ込めて蒐集し、図鑑を完成させます。ポケモンを使役するトレーナー同士が、ポケモンバトルで対戦しポケモンマスターという頂点を目指す。ピカチュウのような可愛い人気キャラクターもいますが、なんといってもこの蒐集作業とモンスター同士のバトルという要素がゲームを盛り上げてくれました。しかし、一方で、ゲームをしている間中どうしても心の片隅に「手下にしたポケモンを酷使している」という罪悪感があった。

 

 現代版ドラえもん、ポストポケモンと評される『妖怪ウォッチ』では、友人のクマは暴力的な喧嘩はしませんし、カンチも財力をひけらかしません。フミちゃんには女の子の友達もいます。ジバニャンは保護者でも使役する手下でもなく、対等な友達です。そしてゲームでこそバトルが多いものの、人気の中心であるアニメでは、驚くほどバトルが少なく、妖怪に関しての困りごとは説得によって解決するのが基本なのです。

 

 しかし、現代的であるというだけで子供にこんなにも愛されるのでしょうか。ゲーム、アニメ、そして少年誌『コロコロコミック』に連載されている少年漫画版、少女誌『ちゃお』で連載されている少女漫画版を見ていると、それぞれの媒体による違いが興味深いのです。

 

 自分の性別もわからなかったはずの子供が、成長していくうちにあっという間に性別ごとに遊びのグループを作るようになり、男女で随分と違った遊び方をするようになる。保育園で子供たちを眺めていても、女児は手先が器用な子が多いなとか、男児は活動的な子が多いなとか、学年が上がるほどに差を感じてしまいます。そういった差が先天的なのか後天的なのかはたまた観測者の思い込みなのかはわかりませんが、その男女差を反映したように漫画版の『妖怪ウォッチ』にも、少年誌と少女誌でくっきりと違いがあります。

 

 少年誌『コロコロコミック』連載の『妖怪ウォッチ』は、石造りのガチャガチャをまわしたところ妖怪執事のウィスパーの封印を解くことになり、妖怪ウォッチを貰います。妖怪を説得したり、悩みに共感したり、執着が間違いであると教えることで友達になっていくのはアニメとも共通していますが、バトルシーンも印象的です。ケータ君も「妖怪探しに出発だ!」と積極的に妖怪を探していくし、毎回話の最後には「天野ケータ、ただいまの妖怪友だち[n]匹。」と友達の数をカウントしていく。コロコロ版漫画はゲームより先行して世に出ているのですが(ゲームと妖怪ウォッチのデザインが違うという内情を描いた四コマ漫画もあります)、ドタバタ度はゲームやアニメより高い。ケータ君は単純ながらも裏表のない優しい子ですし、ジバニャンは下世話で変な顔ばかりしている。執事のウィスパーは体を張ったブラックなギャグも多く、子供たちに愛される清くなくて正しいスラップスティック・コメディです。大人もわかるネタを豊富に含んだアニメに比べると、大人への目配せは全くないのですが、その分少年たちの心を掴むギャグが満載。

 主人公をフミちゃんに設定した少女誌『ちゃお』連載の『妖怪ウォッチ わくわく☆にゃんだふるデイズ』は本家のギャグを踏襲しつつも、少女マンガの文脈で描かれています。ゲームでは主人公を男の子のケータ君、女の子のフミちゃんから選択できるのですが、少女漫画版ではこのフミちゃんが主人公。骨董品店で雑貨を探していたフミちゃんが偶然ジバニャンとウィスパーの封印を解いてしまい、コンパクトにも似た懐中時計型の妖怪ウォッチを貰う所からストーリーは始まります。活躍する妖怪は可愛らしさやかっこよさ重視。庇護欲をそそる可愛い狛犬妖怪のコマさんとコマじろうとも同居しているし、イケメン妖怪のオロチやキュウビとのエピソードも多い。ジバニャンも元の飼い主の影響で女の子好きというキャラが前面に押し出され、フミちゃんにべったりと甘えています。妖怪との出会いはひたすら受け身の巻き込まれ型。妖怪と語り合ったり、悩みを共有することで問題解決をすることが多く、バトル描写はほぼありません。 

 同じ漫画版でも、少年漫画と少女漫画で随分とテイストが違っています。銭湯に居座って迷惑をかける妖怪のぼせトンマンを追い払う場面でも、コロコロ版ではギャグ含めつつバトルシーンに多くのページを割いています。ちゃお版では嫌味なしりとり勝負をしている。

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(左:『コロコロコミック』連載の漫画。飛んだり跳ねたり火を噴いたり派手なバトルが11ページ続く。右:『ちゃお』連載の漫画。豚の妖怪のしりとりに対して豚料理ばかりで返す。)

  かつて『コロコロコミック』を愛読していた私には、コロコロ版のしょうもないギャグが多い『妖怪ウォッチ』の方が懐かしくも馴染み深く感じますが、ちゃお版のラブコメ要素や女の子らしさを前面に出したストーリーの方が抵抗なく頭に入ってきます。きっと私が小学生だったらコロコロ版の激しいギャグの方が気に入っていたでしょうが、今ではちゃお版の方が安心して楽しめます。

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(『妖怪ウォッチ どきどき☆にゃんだふるデイズ』で妖怪とお菓子作りをするフミちゃん。女子会を開いたり、イケメン妖怪とちょっとドキドキするラブコメシーンがあったりと、ギャグはマイルドながら少女マンガの文脈に忠実。)

 

 男児受けする積極的にバトルを探し求める要素、女児受けする無垢なヒロインが愛される要素。ケータ君は積極的に無邪気に妖怪探しと友達の証の妖怪メダル蒐集に乗り出すアグレッシブな少年。バトルによって勝ち上がり友達の数を増やしていく清々しさを感じるものの、ちょっと単純。フミちゃんは日常の中で妖怪との騒動に巻き込まれるパッシブな少女。争いごとを求めず、協調を大切にする姿には共感できますが、受け身で無垢故に愛される姿は少し退屈。

 そういった男女間の世界の乖離をうまく調整して、ニュートラルに楽しめるようにしたのが現在人気の支柱であるアニメ版『妖怪ウォッチ』でしょう。アニメ版では主人公こそケータ君で固定されていますが、妖怪との出会い方は、ちゃお版のフミちゃんのように巻き込まれ型が多い。アニメ版にはほとんどバトルは無く、妖怪に対してはケータ君は基本的に説得することで問題解決をします。頭ごなしの説教ではなく、相手の立場を慮って話し合いをするアニメ版のケータ君はコミュニケーション能力が高い現代っ子。現代っ子の好きなハイテンポのギャグに、パロディや小ネタも多数織り交ぜた、老若男女が笑えるアニメです。

 先に挙げた小学館の学年別学習雑誌が「「学年別」に「男女共通」で「総合的な内容を持つ」雑誌という刊行形態の枠内では、成長と変化が著しい小学校中学年の子どもたちのニーズに必ずしも合致しなくなってまいりました。」(学習雑誌『小学三年生』『小学四年生』の休刊と、小学生向け新ムックシリーズの展開について参照)と男女共通形態が維持できないことを中学年向け雑誌休刊の理由として発表している中で、男女共通に楽しめるフィクションが誕生したことは嬉しく感じます。実際にゲームで遊んでいても小学生と「すれ違い通信」すると男女問わず『妖怪ウォッチ』で遊んでいることがわかる。

 男児が楽しめるバトルとドタバタした笑い、女児が楽しめる見慣れた日常と可愛い妖怪との関わり合い、そしてその橋渡しとなるように、男女が共に楽しめるニュートラルなアニメの世界。アニメでは例えば妖怪はらおドリに取り憑かれて服を脱いで腹踊りをしようとしたフミちゃんをケータ君が必死で止めるというような、安易に女児にお色気要員としての立場を求めない配慮もあります。ガキ大将のクマが暴力でクラスに君臨しているということもなく、弱みも多いやんちゃな普通の男児として描かれています。バトルを楽しむのもいいけれども、争いを求める事だけを男児に強いない。受け身でいることを責めないけれども、無垢なお色気要員であれと女児に強制しない。このニュートラルな調整こそが、男女問わずに子供カルチャーに受け入れられた秘訣なのではないでしょうか。男女の別なく楽しめる新しいフィクションと、男女それぞれの楽しみ方ができるフィクションが、両立している『妖怪ウォッチ』。妖怪たちがこれからも、男の子と女の子の世界を橋渡ししてくれることを期待しています。

*1:地縛霊のジバニャンは生前は女の子に飼われていた猫。しかし、トラックにはねられて死んでしまい、地縛霊になってしまいます。地縛霊のくせにある日ケータの家に居候として居ついてしまう。愛らしい声としぐさから人気のキャラクターですが、元々は女子高生の飼い猫ということもあって女子高生が大好きでハァハァするちょっとあぶない一面もあります。