読者の心のなかにある固有の空間―『「場所」から読み解く世界児童文学事典』

『「場所」から読み解く世界児童文学事典』を読みました。

「場所」から読み解く世界児童文学事典

「場所」から読み解く世界児童文学事典

 

 どんな本なのかは、本のそで(カバーの折り返しの部分です)に次のように説明されている。

登場人物やあらすじは忘れても、記憶に残っている情景は無いだろうか。物語全体を象徴するような「場所」から物語を読みなおすと、そこには新たな意味が浮かび上がってくる。前作『「もの」から読み解く世界児童文学事典』から5年を経て、読者と「場所」と物語をつなぐ第2章の幕開け。

 2009年に刊行された『「もの」から読み解く世界児童文学事典』の姉妹編となっているのが本書です。お姉さんの『「もの」から~』の方が説明しやすく、例えば『ライオンと魔女』のターキッシュデライト(あの謎のお菓子)、『赤毛のアン』のパフスリーブ(流行の袖の形)などが載っているといえば、想像しやすいと思います。本書『「場所」から~』は、その場所版。

ひとつの場所につき一作品、200の場所と作品についての事典となっています。その200の場所がつどう場所、はたらく場所、くらす場所、たたかう場所、まなぶ場所、あそぶ場所、まよう場所、であう場所の8つに分類されている構成。

この場所と作品と分類が、すぐにぴったりと理解できるものもあれば(例:『ハイジ』・山小屋・くらす場所)、どうしてそういう分類になったのかと少し考えさせられるものもある(例:『小さいベッド』・小児病棟・たたかう場所)。200項目のうち、ほんの一部を挙げてみます。

 

「優れた人物たちが集まる場所」の代名詞ともなる梁山泊は、水滸伝において108人の好漢が集う地。腐敗した権力の及ばぬ空白地帯でのアウトロー集団の活躍は、民衆のロマン。

ベルギーのほぼ中心を東西に通る言語境界線は、フランデレン(フランダース)地域とワロン地域の境界線でもある。フランス語公用圏ワロン出身の主人公ネロは、オランダ語フラマン語圏のフランデレン地方に引き取られる。言語も価値観も違う地域に移動を余儀なくされた少年と犬の悲劇。

ザ・ロックの異名で知られる脱獄不可能な監獄島。しかし、実は子供が住んでいた。監獄島は看守や技師などそこで働く人々と家族が生活する場所でもあったのだ。主人公ムースは治療が必要な姉と、姉の治療のために心のバランスを欠きがちな母親を支えている。母は姉を有名な障害児施設に入れようとしている。彼女たちのために、12歳の少年は、ある人物に助力を求める。その名は、暗黒街の帝王アル・カポネ…。

1832年のパリは街に不穏な空気が流れていた。不景気と疫病の流行で困窮した民衆の怒りは蓄積し、反乱軍の蜂起に繋がる。反乱軍残党を追う官憲から逃れるため、ジャン・ヴァルジャンが反乱軍のマリユスを背負って下水道のなかを歩くシーンこそが、本作のクライマックス。巨獣のはらわたと呼ばれるパリの下水道は闇の世界であり、ひたすらに他人の重さを背負って歩く行程は、主人公の人生そのもの。

観賞用ではなく食用に花や木を栽培するキッチンガーデンは実用的な庭と言える。ハーブを育てるというと響きは可憐だが、実際は大変だ。西の魔女ことおばあちゃんの家にあずけられた主人公「まい」は、葉っぱからなめくじを落とし、毎日水やりをし、煮出したセージの煎じ汁をかける。庭仕事をして、家禽の世話をするおばあちゃんとの生活は、生きることの喜びと死や魂について学ぶ修行となる。

  • あそぶ場所・『ちいさいモモちゃん』の保育園

今でこそ待機児童が問題になるが、1962年に本作が刊行された当時は三歳未満の子供を保育園に預けて働くママは珍しかった。モモちゃんは1歳で「あかちゃんのうち」に預けられる。そして3歳になれば「あかちゃんのうち」を卒業して、同じ敷地内にある保育園のひよこ組に入るのだ。保育園のストーブにトラブルがあったある日、先生たちは「あかちゃんのうち」でお迎えを待たせようとするが、モモちゃんは断固拒否。「もう、あかちゃんは卒業したんだから」。誇り高き3歳児の成長の物語。

サハラ砂漠に飛行機を不時着させてしまった「ぼく」と不思議な少年「王子さま」との9日間の交流の物語はあまりにも有名。実際のサハラ砂漠は大部分が石の転がる礫砂漠で、風化作用が進んだ砂砂漠は2割以下。しかし、最終ページにたった2つの曲線で表現された砂砂漠と上空の小さな星は読者の心の中に大きな割合を占めることになる。

  • であう場所・『カバランの少年』の台湾

台湾には人口比2%程度の本来の先住民がいる(民国政府の亡命と共に移ってきた外省人に対する、元からの居住者である本省人もルーツは民代末から清代に大陸対岸地域からの移住者)。先住民は14の民族が認定されている。ペイポのカバラン族もそのひとつ。主人公シンクーは古道の散策中に200年前の世界に足を踏み入れる。タイムファンタジーの手法から、主人公の民族的アイデンティティの目覚めを描いた中国語圏の先駆的本格ファンタジー。

 

既読作品に関しては、場所を鍵にもう一度作品に向き合うことができるでしょう。しかし、事典であると同時にブックリストとしての利用も可能で、気になる場所から作品にあたるという楽しみ方もあります。

難点がふたつあります。ひとつは、本書は姉妹編の『「もの」から~』との作品重複を避けた事典となっているため、あの作品のあの場所に関しても読みたいと思ってしまう贅沢な欲望がうまれてしまったということ。そして、もうひとつは、多くの人に愛されるべき本としては、(失礼を承知で言うと)ちょっとお値段が高い。児童文学の対象年齢者が背伸びをすれば届く本であって欲しいのですが。

 

「もの」から読み解く世界児童文学事典

「もの」から読み解く世界児童文学事典

 

 

 

子どもを幸せにするひとつの手だて―『子どもと本』

『子どもと本』を読みました。

子どもと本 (岩波新書)

子どもと本 (岩波新書)

 

 帯には「『子どもの図書館』(石井桃子著)刊行から半世紀……「その後」は?」とあります。石井桃子著『子どもの図書館』は、日本の図書館事情の遅れを痛感した児童文学作家の石井氏が1958年に自宅で開設した「かつら文庫」の様子を軸に、子供と本との関わりが書かれています。当時、全国に公共図書館は七百余り、子供へのサービスの必要性は認識されておらず児童室もない、司書は専門職とは認めらておらず入れ替わりも多かった。公共図書館の充実・発展に希望を託し締めくくられた『子供の図書館』刊行から半世紀がたち、現在の子供と本はどのような状態にあるかを本書ではとりあげています。

とは言うものの、目次を見ればわかるのですが、子供と本を取り囲む状況について書かれているのは五章です。まずは一章~四章で、子供と本との関係性がどのように生まれて、育つのかに大きくページが割かれています。著者は財団法人東京子ども図書館を設立、以後理事長として活躍する松岡氏。

目次は以下の通り。

一章 子どもと本とわたし
 幼い日に本のたのしみを知ったのが、幸せのはじまりでした。
二章 子どもと本との出会いを助ける
 暮らしのなかに本があること、おとなが読んでやること、
 子どもを本好きにするのに、これ以外の、そして、
 これ以上の手だてはありません。
三章 昔話のもっている魔法の力
 昔話は、今でも、子どもがこころの奥深くで
 求めているものを、子どもによくわかる形でさし出しています。
四章 本を選ぶことの大切さとむつかしさ
 だれかのために本を選ぶときに働くのは基本的には
 親切心―多少おせっかいのまじった愛情―だと思います。
五章 子どもの読書を育てるために
 子どもたちに、豊かで、質のよい読書を保障するには、
 社会が共同して、そのための仕組みをつくり、支えていくことが必要です。
あとがき

 

 子供と本に関して多くの人が気になるのは「どうすれば子供が本を好きになってくれるか」「どんな本を子供に与えればよいのか」ということだと思います。私は自分自身が本が苦手な子供だったくせに、自分の子供には本好きになってほしいと思ってしまう。そう思いながらも、読んだ本の冊数と共に幸福が積みあがる訳ではないことを知っています。子供が本を読むことを期待するのは自身の下心ではと考える事もありますし、子供に本を選ぶ際には自分の好みの押し付けになるのではと怯えています。でも、本を読む子供の姿をみると、なんとも言えないあたたかい気持ちになる。

本書ではそういったフラフラとした疑問と怯えにも、学問的研究結果と、著者が子供と本と関わり続けた実際の経験から真摯に答えています。

例えば二章では赤ちゃんに本を読んであげる方がいいのか、読み聞かせの適齢期はいつかという子供の年齢月齢と本との関わりも誠実にひとつひとつ取り上げている。

三章では昔話の効用に関して大きく取り上げられており、おもしろかったです。自分自身も昔話を楽しんでいたし、いまもよく覚えていますが、しかしながら昔話は残酷ですし、ご都合主義ですし、王様やお姫様満載の階級社会が多いですし、非科学的です。こんなものを子供に馬の首をごろりと転がすように与えていいものか。と、いう心配性な大人の疑問にも、心理学による昔話研究と実践との両輪から答えてくれます。具体的に多くの絵本と児童書の名前が挙がるのも理解しやすい。

自分が子供の時にも既にお馴染みとなっていた、古い本を子供に読むときに、ちょっと躊躇していたんですよね。今はこんな言い回しはしないぞとか、こんな形の車は走っていないよね、とか。そういった昔の本に関しても以下のように書かれている。

 子どもの本の場合、新しい本ーー出版されたばかりの本ーーを追いかける必要はまったくありません。子ども自体が"新しい"のです。たとえ百年前に出版された本であっても、その子が初めて出会えば、それは、その子にとって"新しい"本なのですから。そして、読みつがれたという点からいえば、古ければ古いほど、大勢の子どもたちのテストに耐えてきた"つわもの"といえるのです。

「子ども自体が新しい」という言葉にはっとしました。そういえば、そうだよね。

 

子供の減少もあり、数は減ってきていますが、日本には現在でも全国に3000から4000の私設の「子ども文庫」があります。公共図書館学校図書館以外で子供に読書の場を提供しています。多くの場合、子供と本が好きな人が労を惜しまず、無私の働きとして場を用意しています。名もなき大人たちの「子供と本が好き」という思いに子供は守られ、成長していく。そしてその大人を支える活動のエネルギー源は子供である。子供と大人の本を介した幸福な循環と課題に関しては、実際に本書にあたってください。

 

本書は全体に非常に平易に書かれており、内容の理解ができないということはないはずです。今現在まさに子供と本との関わりに悩んでいる忙しくて若いお父さんお母さんにもおすすめです。

子供と本、そして迷いながらも子供と本に関わろうとする大人への、信頼と誠意がつまった本です。読み終えた後、もう一度、本書の一番最初を読み返して著者の冒頭のあいさつを読んで、なんだか胸にこみ上げてくるものがありました。

 子どもと本。こうふたつのことばを並べて書いただけで、じんわりと幸せな気持ちになります。このふたつが、わたしのいちばん好きな、そして、いちばん大切に思うものだからです。 

 

 

その後のことは、よくわからない―『モーツァルトの息子』

先日までガリレオの娘さんに関しての本を読んでいた流れで、ふと表題が気になって池内紀さんのエッセイ『モーツァルトの息子 史実に埋もれた愛すべき人たち』を読みました。

モーツァルトの息子   史実に埋もれた愛すべき人たち (知恵の森文庫)

モーツァルトの息子 史実に埋もれた愛すべき人たち (知恵の森文庫)

 

 1998年に集英社から出た単行本『姿の消し方』の改題・文庫化。どういった本なのかは「文庫版のためのあとがき」の著者自身の言葉が適切だと思うので引用したい。

この『モーツァルトの息子』に入っている三十人は、読書の裏通りで出くわした人々である。ものものしい伝記を捧げられるタイプではなく、その種の伝記にチラリと姿を見せ、すぐまた消える。ただなぜか、その消え方が印象深い、そんな人たち。

モーツァルトの伝記は数多くあれど、残された息子は注目されないまま伝記は終わる。そんなモーツァルト二世のように、歴史の中で確かに実在した、名前を残した、(そして忘れられた)、30人の人生が紹介されるのですが、語り口に哀愁と小気味良さがあり、まるでミステリ小説を読んでいるかのようです。

表題となったモーツァルトの息子がやはり読者としては覚えが良い存在でしょうが、それ以外の人たちがより印象に残っています。18世紀のウィーンにおいて誰もが名を知る落書き魔、読書家の殺人鬼、カフカから送られた膨大な恋文、奇妙な顔ばかりを作った男、三十年戦争を終わらせたスウェーデン女王、罵倒だらけの旅行記を書いた男、などさまざまな人々が登場しては消えていく。

ミステリ小説のようだと感じたのには理由があり、登場する人々を語る際にちょっとしたオチがつくことがある。例えば、サイレント映画の巨匠エーリッヒ・フォン・シュトロハイムは「貴族の血」というタイトルで紹介されている。「召使がそっとドアをノックする。ノックの音が気に入らないので撮影に三日かかった。」というホンモノへのこだわりがある。名にフォンと付くように、元貴族だという映画監督は実は…。例えば、恐ろしく素朴で下手くそな詩を書く素人詩人がいる。笑ってしまうほどに下手な詩集は版を重ね、増補版を生み、一世紀にわたって絶えず売れたが、詩人の名前も詩集のことも文学史には登場しないのは何故か…。例えば、イタリア国王ウンベルト一世を暗殺したカエターノという男がいる。謎めいた暗殺者の突発的な犯行にアナキスト集団すらうろたえた。どの団体にも属さず、どんな陰謀も持たない犯人の、不可思議な国王殺害の動機とは…。

 

どうも本書自体が裏通りに属する書籍らしい。著者曰く、

書き上げていた四十人ちかくから三十人を選んだのが『姿の消し方』(集英社、一九九八年)のタイトルで本になった。多少の自信もあり、わりと気に入っていたのに、なぜか早々に書店の本棚から消えてしまった。

文庫本として息を吹き返すも、時間の流れに静かに押し流されようとしている。確かに生きて死んだ人々の人生に触れることができて、とても楽しかったです。

 

このうえなく高名で親愛なる父上様―『ガリレオの娘』

青コ~ナ~、近代科学の父、ガリレオ・ガリレイ~!赤コ~ナ~、ローマ教皇、ウルバヌス8世~!
科学と宗教の分裂、対立の象徴として、今なお語られる17世紀のガリレオの裁判、即ち彼の記した『二大世界体系に関する対話』で、聖書に反するコペルニクスの地動説を支持したとして有罪判決を受けたという事例。この裁判からイメージされるガリレオ像は正しき自然科学の申し子にして、教会の対立者です。有罪判決を受けて呟いたとか実は言ってないとか噂される「エップル・シ・ムオーヴェ(しかしやはりそれは動くのだ/それでも地球は動いている)」という言葉の力強さと高潔さに胸打たれる人も多いはずです。理不尽な教会と教皇ウルバヌス8世に対し、孤立無援の状態で戦った現代科学の師父ガリレオ超かっこいい。ガリレオ、右だ右!腹嫌がってるぞ!と応援したくなる。

しかし、ここでひとつの事実が。ガリレオ・ガリレイには娘があり、娘を修道院に入れています。愛娘はキリストの花嫁たる修道女。なにやら教会の対立者のイメージから大きく離れます。

ガリレオの長女の修道女マリア・チェレステが修道院から父に書いた124通の手紙から、ガリレオの人間像に迫ったのがデーヴァ・ソベル著『ガリレオの娘』です。

ガリレオの娘 ― 科学と信仰と愛についての父への手紙

ガリレオの娘 ― 科学と信仰と愛についての父への手紙

 

ガリレオ・ガリレイは生涯結婚はしませんでしたが、内縁の妻マリナ・ガンバとの間に二人の娘と一人の息子をもうけます。そして二人の娘がまだ12、13歳の頃に修道院にいれている。理由はいくつか推測でき、内縁関係の娘であることから結婚ができないと考えた、ガリレオの健康状態が優れない、次女リヴィアに引きこもりの病的傾向があった、男やもめとなったガリレオにとって娘の養育の協力者がいなかった、そしてガリレオの研究との対立者の企てを懸念していた、などです。

本書のタイトルたる『ガリレオの娘』とは、長女ヴィルジーニア(修道女マリア・チェレステ)のことであり、父であるガリレオ曰く「娘は、たぐいまれな知性の女性で、比類のない善良さを備え、私にこのうえない優しい愛情を抱いています」という凄い娘。現在彼女に関して残されているのは一枚の肖像画と父親宛ての124通の手紙だけですが、本書で紹介される彼女の手紙は驚くほどの美文で、常に父に献身する姿が想像できます。

健康状態が優れず、ワインを頻繁に飲む習慣のある父ガリレオを心配し、困窮する修道院での厳しい日課と勤めの合間に父のための繕いものをし、父と弟が喧嘩をした際はその場にいないのに仲裁に入り、ペストがイタリアを襲った際は祈りと舐薬を送ったマリア・チェレステ。厳しい修道院生活の中で、ガリレオが宗教裁判にかけられたことによる心痛もあり、彼女は33歳の若さで命を落とす。本書の中では彼女の手紙がガリレオの物語の要所で次々と登場し、その当時の生活と共にごく一般的なキリスト教徒であり、父親であり、研究者であるガリレオ像を浮かび上がらせてくれます。

手紙の中から読み取れるガリレオは、教会に対立する者ではありません。敬虔なカトリック信者であり、自然を研究することによって聖書と神の言葉に合致する真実が見いだされると深く信じていたようです。

ガリレオは、学問上の論敵を徹底論破するスタイルの学者であり、当時のしきたりから離れて大衆に分かりやすい口語文で本を出版するなどの点から敵対者も多くいた。ですが逆に支持者も多く、ルネ・デカルト、ピエール・ド・フェルマーをはじめとした研究者たちだけでなく、聖職者の中にも強くガリレオ支持を掲げる有力者はいたのです。孤立無援ではなく、赦免のためにローマに乗り込んでくる仲間がいました。ガリレオが自説を出版する際も、結構、根回しをしているのです。

また、教会も悪・即・火刑!というわけではなく、地球が動き太陽は不動であると断言するのならば聖書に対立するが、仮説として抱くのならば容認するというスタンスだったようで、これもイメージとは少し違っていました。

近代科学の父にして自然科学の代表闘士という役割を長く果たしてきたガリレオ・ガリレイ。しかし、その娘の存在から見えるのは、家族を愛し、教会と対立せず、極めて敬虔なカトリック信者という当時としては一般的な人間です。

短い生涯を通して常に父を愛し続けたヴィルジーニアが、修道院にはいる際に選んだ修道女名はマリア・チェレステ。「チェレステ」は「天界の」を意味します。星に魅了されていた父への共感を示したのでしょうか。

 

 

ただの病名を、血の通った人間へ―『アルツハイマーはなぜアルツハイマーになったのか』

アルツハイマーはなぜアルツハイマーになったのか』を読みました。

アルツハイマーはなぜアルツハイマーになったのか 病名になった人々の物語

アルツハイマーはなぜアルツハイマーになったのか 病名になった人々の物語

 

 ネット書店で購入した際の紹介文は「パーキンソン病アルツハイマー病、アスペルガー症候群……病気や症状には発見者や患者の名前がつけられているものも多い。よく目にする神経疾患・脳疾患の名称はどのような経緯で名づけられたのだろうか?」というもので、人名に由来する専門用語を切り口とした医学史の一般向け本という認識でよろしいかと思われます。

人名由来語としてパーキンソン、アルツハイマーアスペルガーなどは現在では「病」や「症候群」を付けずに使われることもある、大変に有名な語です。でありながら、「名親」のファーストネームまでは記憶されていない。そしてファーストネームと共に、その疾患がどのように発見され、発表され、名付けられ、研究がすすめられたかという経緯は忘れ去られています。本書では12人の名親に注目し、彼らの生涯を通じて、精神疾患・脳疾患が「発見」された経緯が手際よくまとめられています。

はじめに 「ドラーイスマ症候群」がありえない理由
第1章 夕闇迫る頃、彼らがやってくる シャルル・ボネ症候群
第2章 苦しい震え パーキンソン病
第3章 フィニアス・ゲージの死後の徘徊 
第4章 ケレスティヌスの予言 ブローカ野
第5章 ライデン瓶の火花 ジャクソンてんかん
第6章 シベリアのブランデー コルサコフ症候群
第7章 死ね、このバカ! ジル・ド・ラ・トゥーレット症候群
第8章 もつれた迷路 アルツハイマー
第9章 神経学のメルカトル ブロードマンの脳地図
第10章 狂気の大本 クレランボー症候群
第11章 分身にお茶を カプグラ症候群
第12章 小さな教授たち アスペルガー症候群
第13章 カルダーノ的な科学停止

12人の名親とその由来語については、誰もが知っているような超有名疾患名もあれば、耳慣れないものもあるのですが、各章ともその発見と命名の歴史をコンパクトにまとめており、構成が良いため適当に読み始めても飽きずに章の終わりまで辿り着けます。

本書の主題はあくまで各トピックの命名を切り口とした研究の歴史ではありますが、その歴史の流れから名親たちの生涯と、患者たちの人生を垣間見ることとなる。ただの普通名詞である病名が、固有名詞に戻り、血の通った人間が確かにこの専門用語の中にいるのだということが感じられるのです。

 

それでは蛇足ではありますが、その12人の名親の中から数名だけピックアップして、彼らの人生を少しだけ振り返ってみたいと思います。彼らの名前は本書を手に取って確かめてみてください。

 

シラミのような男がいた。シラミのようだというのは彼が自身をそう表現していたから、とりあえずはそう呼ぼう。シラミのような男は1857年にフランスのとある村で産声を上げた。彼は極めて優秀な子供で、学校では二学年も飛び級をしており16歳で大学の医学部に入り、その3年後には医師試験に合格している。シラミのような男はしかし抜群に優秀である一方で、多動児で問題児であり、短気で気まぐれ、すぐに人の話にくってかかり、言いがかりをつけて、口喧嘩を始める。声は甲高くしゃがれて、常に大音声で喋り、精神の均衡を欠いていた。彼はある症状の名親であるが、患者ではありません。一生涯を精神障害の患者のために尽くした医師であり、後に自身の名がつくこととなる障害(シラミのような男はそれを「忌まわしき人生の友」と呼び治療不能だと考えた)の研究者でした。

フランスで生まれたシラミのような男は、1901年にスイスの病院で人生を終える。精神障害の医師であった彼は、自身が精神障害の犠牲者となり、奇妙な論文を発表し続けたが、次第に仕事を続けることができなくなった。世間の目を逃れるために妻子によってスイスに連れて行かれた。そこでも食堂のメニューを全て盗むなどの混乱した行動を続け、まるで彼自身の患者とほとんど同じような行動をした。ついには困っている患者がいるのだと聞かされ、診察に出た先の病院で強制的に隔離病棟に収容された。

 

シラミのような男がスイスで亡くなった数か月後、ミュンヘンである論文が発表されます。この論文を提出したのは、とある野心のない男でした。彼が本当に野心がなかったかというと、そうでもないのでしょうが、いつだって彼の周囲の方が野心家だったために相対的に野心がない男なのです。

野心のない男の生涯を語るとなると、もはや登場人物一覧だけで圧倒されてしまうでしょう。手始めに、生涯の親友として登場するのが、「ニッスル染色法」に名を残す優秀な研究者フランツ・ニッスル。野心のない男はミュンヘン王立精神病院に勤めますが、ここの上司が「クレペリン分類」のエミール・クレペリンであり、クレペリンこそがこの野心のない男の名を疾患名として残すこととなるのです。この研究室を訪れるほんのチョイ役として、「レビー小体」でお馴染みのフリードリッヒ・ハインリヒ・レヴィや、「クロイツフェルト・ヤコブ病」がその名を冠したハンス=ゲルハルト・クロイツフェンとアルフォンス・ヤコブも登場する。1912年に野心のない男はミュンヘンの王立精神病院を去り、フリードリッヒ=ヴィルヘルム大学付属精神病院の院長となりますが、その院長の椅子に長く座り続けた前任者は、「ウェルニッケ失語」で有名なカール・ウェルニッケです。

 

野心のない男がミュンヘンの王立精神病院を去った後、院長であるクレペリンは解剖学実験室の後任者を探し、ある放浪男を迎えることとなる。放浪男はある地図の研究者です。農家の息子としてドイツのコンスタンツ近郊で生まれ、ミュンヘンの医学校に入り、ヴュルツブルクとベルリンで勉強をし、ミュンヘンで就職するが病気のためバイエルンで療養することとなる、とこの調子で次々と地名が飛び出す。放浪男は彼の意図とは無関係に、ある場所に腰を据えると、しばらくして別の場所への移動を余儀なくされる人生を送ります。仕事上の放浪も多く、ようやっと腰を落ち着けて教授資格まで取得できたと思った途端に戦争の勃発により研究が中断されることもありました。放浪男がクレペリンに招かれ、組織局所分布研究所の所長に就任したことで、ようやっと放浪が終わることとなるのです。1918年、最後の転職です。愛する妻と生まれたばかりの娘を連れて、引っ越しをし、最先端の研究所で優秀な研究員を指揮しながら研究に打ち込むこととなりますが、たった5ヶ月でまたもや幸福な場を去らなくてはいけなくなります。敗血症により、彼の命が奪われたからです。

 

本書の本筋は彼らの名を持つ病が発見され、命名された経緯です。

青い鳥文庫で科学リテラシー―『七時間目』シリーズ

 子供に科学リテラシーを身につけてもらいたいと考える全国の保護者及び先生及び通りすがりの皆様におかれましては、どのようにリテラシーを学ぶ糸口を見つけるかということで日々悩んでいることと思われます。私はといいますと、前段階としてリテラシーとは何なのかがいまいち分かっていないため、Wikipediaで調べてみました(やる気ないのか)。

 そんな徳川埋蔵金にも等しい摑みどころの無さを誇る、科学リテラシー教育の糸口。朗報です。科学リテラシーの第一歩となる児童書を紹介します。もちろん基本的には、子供が科学リテラシーを楽しく学ぶ糸口となってほしいのですが、まずは大人が読めと思っています。ちょっと古くなってきた本ですが、どうせ年を取ると時間の流れを早く感じて去年も10年前も同じようなものでしょうから遠慮しません。

 

 藤野恵美「七時間目」シリーズは、『七時間目の怪談授業』『七時間目の占い入門』『七時間目のUFO研究』の三冊からなり、子供が大好きな怪談(幽霊談)、占い、UFOというオカルトに属するものを懐疑主義的な立ち位置から描いている小説です。超常現象を扱う児童書は多くありますが、疑いの目を向けるという取り組みは貴重です。そして、そうでありながらも超常現象の否定材料を集めたオカルト百人斬りではなく、少年少女の葛藤と成長を織り交ぜながらの等身大のエンタメ小説となっており、ジュブナイルとして楽しめます。超常現象を否定して、ハイ論破、という物語ではないので、子供が陥りやすい、懐疑主義的な視点を身につけたことを自己肯定の手段としてしまい、周囲を馬鹿にするという態度からも距離を置けるはず。

 三冊は続き物ではなく、独立した話となっています。それぞれの小説について刊行順に簡単に感想を書いておきます。子供は興味のあるものだけ手に取ればいいと思いますが、大人は三冊全部読めと思っています。

 

『七時間目の怪談授業』

七時間目の怪談授業 (講談社青い鳥文庫)

七時間目の怪談授業 (講談社青い鳥文庫)

 

 

月曜日。羽田野はるかの携帯電話に呪いのメールが届いた。9日以内に3通送らないと、霊に呪われるという内容。不安でたまらないはるかはケータイを先生に没収されてしまった!メールを送れない、とあせるはるかに、幽霊がいると思わせたらケータイを返すと先生がいった。毎日放課後、みんなで怖い話をするが、日にちはどんどん過ぎていく!

 ケータイを没収した古田先生は、幽霊なんて存在しないと言います。怖い話をして怖がらせることができればケータイを返すという先生に、はるかとクラスメイト達は放課後に怪談を発表するという内容。登場する怪談はお馴染みの「赤いちゃんちゃんこ」からダジャレ系怪談「恐怖の味噌汁」、不気味な日本人形、友達の友達から聞いた恐怖体験、伊集院光が創作した現代怪談*1など幅広く、単純に児童向け怪談集としても楽しめます。

 様々なタイプの怪談に出会ったはるか達は「そもそも怖いというのはどういうことか」「本当に怖いものはなにか」「幽霊が怖いのはなぜか」と考え始めます。ホラーゲームでもバイオハザードサイレントヒルと零とSIRENではそれぞれ持ち味が異なるのです。映画版のウェスカーはなかったことにしてください。

 幽霊を怖いと思うことと、死への恐怖は切っても切り離せない関係であり、本書は基本的には幽霊談に対して懐疑的な目を向けていますが、死への恐怖と命の大切さを考えることを粗末にしてはいません。

「幽霊が本当にいて、呪いとか祟りに力があるなら、みんなもっとそれにおびえて、生き物の命を大事にすると思う!だから霊とかがいればいい。」

  そして怖い話にはお馴染みの「本当に恐ろしいのは幽霊ではなく生きている人間だ」的なハラハラする話を経て、はるかは物語の最初と最後で、異なる見方で世界を見つめることができるようになります。

 

『七時間目の占い入門』

七時間目の占い入門 (講談社青い鳥文庫)

七時間目の占い入門 (講談社青い鳥文庫)

 

 

悩んだり困ったりしたとき、占いに頼りたくなること、あるよね。神戸の小学校に転校した、6年生の佐々木さくらも、そんな女の子の1人。趣味は占いって自己紹介して、すぐにクラスにとけこむことができたけど、その占いのせいで、クラスの女の子どうしが険悪な雰囲気になってしまった! 困ったさくらは占いで解決しようと考え、占いの館へ!

 占いが公共の電波に乗らない日は無く、占いを視界に入れずに生活するためには工夫が必要になります。占いの対象となるのは多くの場合は本人の意志では変えられない血液型、星座、干支、名前などです。そして本人の意志で変更できないような要素をもって人間を区別することは、大人であれば差別と紙一重だと理解し適切な距離をとることができます。しかし、子供であればどうでしょうか。

 子供にとっての占いは、無邪気で楽しい遊びとして広まります。無邪気なそれが徐々にトラブルを生み、深刻な差別を引き起こしていく過程に非常に説得力があり、特にリア充系の明るく可愛く派手なクラスの中心的女の子という、アメダスのように全国各地の小学校学級に配備されているタイプの女児の邪悪さは妙にリアルでこいつの家にAmazonで注文した「今日から踊れるどじょうすくい5点セット」を10セット分くらい送りつけたい。踊れ。

 血液型占いをクラスの多くが信じてしまった状態で、占い肯定派と否定派がぶつかる学級会は非常に簡潔にリテラシーの未熟な子供の危うさを示していて恐ろしい。「血液型占いは統計のようなものだから科学的だ」という主張と「実験データとして信頼できず、科学的ではない」という主張の対立から幕を開けた学級会では、占いで未来を知るということの矛盾についてや、そもそもABO式血液型とは何なのかということについての簡単な説明、そして差別とは何かといことに踏み込んでいく。

「血液型も性別も、生まれつきのもので、本人の努力では変えることがむずかしいものだ。そういうもので、決めつけるのは、差別だな。」

 ならば占いは悪なのかというと、この物語では絶妙なバランス感覚で占いのセラピーとしての側面、人の心を助ける力、気軽な遊びとしての付き合いを肯定している。占いのような怪しくて正しくなくて、しかし悪でもなく人を救いもする物事に、どう付き合うのかを問いかけることで、子供の成長を描いているのです。また、未来を占うということに対しての疑念の材料として、本作の舞台が関係してきます。神戸が舞台となっていることに関しては、単純な主人公のプロフィール以上の意味があります。

 最後に、お小遣いの管理は、しっかりと、ね。

 

『七時間目のUFO研究』

 

あなたはUFOを信じますか?
6年生のあきらと天馬は、2人でロケットを飛ばしている。……といっても、ペットボトルで作ったものだけど。実験中、天馬が偶然UFOを目撃したからさあ大変!新聞記者やテレビ、怪しげなカウンセラーまでやってきた!ひとりの記者と知り合っていろいろ話すうちに、あきらの中で宇宙への思いが熱くなる。

  シリーズの中で最もジュブナイルとして洗練されており、少年の葛藤と自立の始まりを、怪しいオカルト話への懐疑とリンクさせて描いています。「静かな過疎の町」「少年の自立」「ロケット」という舞台装置もロマンがありますね。恐らく作者もノリノリで書いたのでしょう、作中に登場するオカルト番組の名前は「デムパの沼」、番組に登場するUFOカウンセラーは「アダムスキー江尻」と筆が滑ってる感さえあります。

 本書では怪しげなオカルトにはまり込んでしまう人の心についての描写もあり、わからないことをわからないと認めることの大切さについて登場人物が言葉を交わしています。

「ああ。簡単に理解できて、道徳的に正しくて、受け入れやすい答えを聞けば、人は安心できるんだ。自分で宇宙について考えようと思ったら、ビッグバン説を理解するために、まず一般相対性理論を勉強しておく必要がある、物理の基本的な知識を学んで、量子力学とか専門的なことも勉強して……数学もできないといけないし……。そういうことを自分で考えるのが、しんどくて、面倒な人は、宇宙の秘密を知っているというアダムスキーさんみたいな人にたよりたいと思うんだろうね。」

 ここでちょっと凄いのは、ではデムパの沼のようなオカルト番組を楽しんでいる人は馬鹿で愚かで邪悪でAmazonで「どじょうすくい5点セット」を10セットも誤発注してしまうような人達なのかというと、そうではなく、あやしい番組のファンのような人もまた心優しく生真面目な良き人々であることが描かれているのです。

 また、シリーズを通して「そもそも~とはどういうことだろうか?」と考える姿勢を示しており、本作では「信じる」とはどういうことかについて踏み込んでいます。

「信じる……。信じるって、どういうことだろうね。少しもうたがわないってこと?」

 灰原さんは口の中でくり返して、つぶやく。

(略)

「自分では本物のUFOなんて見たことがない。けれども、遠い星に未知の生命体が存在していて、ふしぎな乗り物に乗ってこの地球に来ているかもしれない……という可能性を否定できないから、ぼくはUFOを探しているんだ。UFOを信じている人っていうのは、UFOがいると決めつけている人だよね。そういう意味では、ぼくは『信じている』とは言い切れないかもしれない。」

「どういうことですか?」

「だって、もし、UFOがいると信じていれば、探す必要なんてないから。」

 

 繰り返しになりますが、子供向け文庫レーベルから刊行された児童書であり、確かに子供が読めば、科学リテラシーの芽生えのきっかけになり得る小説シリーズです。しかし、まずは大人が読めと思います。おもしろいですから。

 

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私を芸術家にした怪物たち―『センダックの絵本論』

『センダックの絵本論』を読みました。

センダックの絵本論

センダックの絵本論

 

 モーリス・センダックの絵本で最も知名度が高いものといえば、本邦においては『かいじゅうたちのいるところ』だと思われますが、絵本界の三大不気味書のひとつ『まどのそとのそのまたむこう』もセンダックの代表作です。三大不気味書ってはじめてききましたね。ほかの二作品が気になるところですが、ともかく、『まどのそと』は気色悪いゴブリン、氷の赤ちゃん、不在の父の手紙、虚ろな瞳の母と不気味の福袋みたいな絵本です。

まどのそとのそのまたむこう (世界傑作絵本シリーズ)

まどのそとのそのまたむこう (世界傑作絵本シリーズ)

 

そんな不気味な名作に登場する赤ちゃんと、その赤ちゃんのおもりを押し付けられた姉のアイダは何者なのか?そもそもこの不気味な話は何なのか?

大変に深い謎のようですが、センダックがかなりあっさりと答えを語っています。センダック自身による言葉だけで編まれた評論と随筆集『センダックの絵本論』にそれがあります。

もうひとつ考えていたのは、姉のナタリー―私より九つ年上で、私の世話をさせられていたナタリーのことでした。(略)私は姉の悪魔的な怒りを覚えています。一九三九年のニューヨーク万国博覧会で、彼女が私を置き去りにしたことも覚えています。その一方で、彼女が私を心から愛してくれたことも覚えています。ただ、両親がどちらも仕事に追われていて時間がなかったために、私は否応なしに彼女に押し付けられてしまったのでした。それが『まどのそとのそのまたむこう』の状況です。(略)

彼女は赤ん坊を愛しています。憎むのはほんの時どきのことにすぎないのです。最終的にはあの本は、アイダである私の姉への――とても勇敢で、とても強く、とても恐ろしく、私という赤ん坊を世話してくれた姉への、心からの捧げものにほかなりません。

ナタリーさん、評論の中でもたびたび登場しており、幼いセンダックのすぐそばにいつもいたのであろうことがうかがえます。

 

『まどのそと』はセンダック自身が大変気に入っている作品で「あの本のほとんどは、子どものときに私を脅えさせたものをもとにして作られてい」るそうです。例えばそれは幼い時に見た暴風雨にあった少女の出てくる本、そして1932年に起きたリンドバーグ誘拐事件。

飛行士リンドバーグの1歳の長男が誘拐された事件は当時「アメリカ人全員の共通の記憶であり、何にも増して私たちに精神的外傷を与えた体験のひとつ」であり、幼いセンダックは自分と誘拐された赤ちゃんをごっちゃにしていたようです。そしてリンドバーグ事件の恐怖から『まどのそと』は「あの本の中で、私はリンドバーグの赤ん坊であり、姉が私を助けに来てくれた」ことによってセンダックを解放してくれたのです。

この随筆ではその他にもセンダックの怖いものがいくつも具体的に挙げられています。両親、姉、リンドバーグ事件、古い映画、学校、そして電気掃除機。実は『かいじゅうたちのいるところ』のかいじゅうの正体も、センダックの身近にいる恐ろしいものだったのです。

それは多分、ブルックリンでしばしばくり返されたあのぞっとする日曜日の記憶――だれ一人として特に好きではなかった伯母や伯父たちが来るというので、姉も兄も私も正装しなくてはならなかったあの日曜日の記憶から出てきたのだと思います。(略)

ですから結局、「かいじゅうたち」はあの伯母や伯父たちであったようです。

 

『センダックの絵本論』は絵本論というだけあって、コールデコット論、アンデルセン論、ポター論、ウィンザー・マッケイ論などの数多くの評論が収められているのですが、なかでも印象的なのがウォルト・ディズニー論です。

ミッキー・マウスとセンダックは誕生年が同じで、名前の頭文字が同じ。当時山ほどいた子役の映画スター(シャーリー・テンプルやボビー・ブリーンのような)と違い子供に劣等感を抱かせることがない、最高の友であったミッキー。「燃えるように激しい生気に満ちた、おそろしく風変わりな顔」の「想像力に強い影響と刺激を与える」あのネズミ氏に強い友情を感じたセンダックは『まよなかのだいどころ』の主人公にもミッキーという名を与えています。

そして、第一の親友であるミッキーの、ディズニーの、その後の変貌への軽蔑もあらわにしています。

彼は通りの遊び仲間を見捨てて郊外住宅に住みつき、不恰好で心のない享楽主義者になってしまいました。それらの微妙な変化、ときには微妙とは言いがたい変化が、ミッキーを芸術の世界から商売の世界へと押し出してしまいました。(確かにミッキーは最初から商品ではありましたが、今では見かけからして商品そのものです。)

かつての親友ミッキーの堕落を語る時の鮮やかなこと。

センダックは『まよなかの』に登場する料理ストーブにミッキー・マウスを描きたいと思ったのに、ディズニースタジオに拒否されてムカついたという記録もあります(流石にそれは無理だよ、相手がディズニーだもん)。

センダックにとっては気に食わないミッキーの気質も「全米代表選手風の」「あのお国自慢的性格」となんとも味わい深い批判です。それはちょうど、よくアメリカという国に対して投げかけられる嫌悪とも似ています。アメリカが生んだセンダックが、アメリカを見事に批判しているようで、おもしろいのです。

『センダックの絵本論』はセンダックの作品をたのしむ道しるべでもあり、同時にセンダックの眼から見たアメリカ論として読むこともできると思うのです。

 

まよなかのだいどころ

まよなかのだいどころ

 

 

かいじゅうたちのいるところ

かいじゅうたちのいるところ