わたしたち園芸家は、未来に対して生きている。―カレル・チャペック『園芸家の一年』

 プラハが舞台になっている映画や小説を楽しむと、いつもチェコという国は「オタク国」だなと薄らと感じてしまう。もちろんオタク魂を持った人は世界中にいる。でも、国としてのオタク国となるとイギリス、日本、そしてチェコが思い浮かぶのです。それぞれ蒐集、詳解、技巧と異なるオタク面を見せつつも、オタク国は基本的にオタク個人を野放しにして面白がる点は共通している。

 チェコのオタク文化は飄々として淡々としているイメージがあります。恐らく、チェコと言えばカレル・チャペックが真っ先に思い浮かぶからでしょう。彼の本業は劇作家であり評論家。しかし、日本では児童文学作家、『一つのポケットから出た話』のミステリ作家、『ダーシェンカ』の愛犬家、兄ヨゼフと共に『ロボット』という言葉を生み出した戯曲家、そして園芸家のイメージが強いかもしれません。影響力があり多くの側面を見せるカレル・チャペックの園芸オタクっぷりがよくわかるのが『園芸家の一年』です。

 『園芸家の一年』(『園芸家の12ヶ月』として馴染んだ方も多いかも)は園芸オタクであった著者が綴った園芸愛あふれる不朽の名作。訳書は複数回出ています。久しぶりに読み直したら、やはり面白かった。

園芸家の一年 (平凡社ライブラリー)

園芸家の一年 (平凡社ライブラリー)

 

(文中の引用は全て、飯島周さんの訳された平凡社ライブラリー版に拠っています)

  本書はユーモアと皮肉によって綴られた園芸オタクの随筆です。ただただ面白い随筆として読むことも可能ですし、季節の中での庭の自然を楽しむ手引書としても優れています、また、園芸という人が自然の片鱗に対峙する趣味の中で見出す人間心理の物語としても読めます。ここではオタクあるある話として見ていきましょう。

 オタクたるもの、対象をひたすら愛する。馬糞を抱えて庭の中心で愛を語る。

さて、この芳香を、園芸家はすでにあの厩肥の、湯気を立てる藁の山の中に感じている。その香りに酔いながらも注意して、この神の贈り物を庭一面にばらまく。それはまるで、ひと切れのパンにマーマレードを塗って自分の子供たちに与えているようだ。さあ、おまえにやるよ、おでぶちゃん、おいしく食べろよ!マダム・エリオ、あなたには丸ごと、ひと山さし上げよう、あんなに美しくブロンズ色に咲いてくれたことのお返しだ。カツミレよ、なにも言わずに、この馬糞のごちそうを受け取ってくれ。そしておまえには、この褐色の藁を広げてやるよ、嫉妬深いフロックスよ。
 なぜ鼻をそむけるんだ、みんな? わたしがこんなによい香りをさせているのに?

  オタクたるもの、対象を分類してみたくなる。

カフェにはカフェの植物が、そしてまた、燻製食品店には別のものが繁茂していること、植物のある種ある属はどこそこの駅で、別のある種ある属は線路の番人小屋のところで、とくに元気がよいことに気がつく。詳細に比較して研究すれば多くのことが証明されるだろう。

(この後、実際に「停車場植物」「鉄道植物」「肉屋植物」「飲食店植物」と分類している)

  オタクたるもの、対象を早口で羅列する。

これらのありとあらゆるミニチュアのカンパニュラ、ユキノシタ、ムシトリナデシコ、クワガタソウ、ノミノツヅリ、(中略)リンドウ、タカネミミナグサ、アルメリア、ウンラン(また中略)ミヤマカラクサナズナと、イチョウシダと、グンバイナズナ、エチオネーマ、さらにもちろん、キンギョソウ(またまた中略)さらに劣らず重要な、たとえばサクラソウ、ミヤマスミレなども忘れてはならない(またまた中略)これらの花々を苦労して育てたことのない人には、この世の美しきものすべてについて語らせるわけにはいかない。

 オタクたるもの、対象にはいつだって恐れと不安も抱いている。

三日目には、長い白い小さな足の上になにかが生えてきて、狂ったように大きくなっていく。さあでてきたぞと大声で叫ばんばかりに喜び、初めての小さな芽吹きを、まるで瞳のごとく大切に取り扱う。四日目になって、その小さな芽が信じられぬほどの長さにのびたとき、これは雑草かもしれない、という不安が頭をもたげる。鉢のなかで成長する、最初の長い細いものは、つねに雑草なのだ。

  オタクたるもの、対象のために買いまくり、家人に叱られる。

球根はまだいくつか残っているのに、鉢がもうないことに気づく。そこで鉢をいくつか買い足す。ところが今度は、球根はもうなくなったのに、鉢と培養土が余っていることを発見する。そこで、さらに球根をいくつか買い足すが、今度は土が足りなくなったので、新しく培養土をひと袋買う。するとまた、土が余る。その土を捨てたくないので、また、鉢と球根を買い足す。
 こんなやり方をさらにつづけていると、ついには、家人から禁止命令を下される。

  このように、何かに熱中しているオタク人間の滑稽さと愛おしさを描く中で、人間と人間社会に対する非常に鋭い洞察も飄々と織り交ぜている。それはシリアス顔でありながら常にユーモアを感じる文章の中で、絶妙なタイミングで繰り出される一文であり、これに関しては実際に本書にあたって頂きたい。ポーカーフェースで冗談を言い、大げさな誇張と大胆な比喩に笑って、そして泣いてほしい。

 

 カレル・チャペックは冬の嵐の日に、庭仕事をしたせいで1938年のクリスマスに肺炎になって亡くなっている。愛する庭に殺されたようなものとも思えるが、しかし、もしも生きていたらどうなったでしょうか。

カレル・チャペックファシズム批判的要素のある作品を多く発表した作家でした。脅迫を受けても亡命を選ばず、チェコで生きていた。そして彼の死を知らぬナチス・ドイツのゲシュタポは1939年に彼の屋敷に押し入っている。もちろん、この反ファシズムの「危険人物」を逮捕して収監するために。実際に、彼の兄であり、本書にも多くの挿絵を寄せているヨゼフ・チャペックは風刺漫画を問題視されて逮捕され、ベルゲン・ベルゼン強制収容所*1で命を落としている。どのような死が良き死かと考えることは不謹慎で愚かかもしれませんが、庭に命を捧げることができなければ、カレル・チャペックもまた強制収容所で非業の死を遂げていたでしょう。

 恐怖の嵐が吹き荒れる時代の中で綴られた『園芸家の一年』では徹底的に政治が無視されている。庭で土をいじり、肥料を混ぜ込み、ホースに悪戦苦闘して水をまき、種を植え、水をやり、芽吹きをまっている。そればかり。荒れ狂う政治と恐怖の時代を無視するという究極の皮肉を、本書はやってのけているのです。

 もちろん、そんなことは考えなくても楽しめます。何度だって笑えるのんびりとした園芸随筆なのですから。

真正の、最善のものは、わたしたちの前方、未来にある。これからの一年、また一年は、成長と美を加えていく。神様のおかげで、ありがたいことに、わたしたちはまたもう一年、未来に進むのだ!

残された庭の植物たちは、恐怖の時代に踏み荒らされても、もう土の下で芽の形で存在していたのでしょう。

 

 

ボタニカル・ライフ―植物生活 (新潮文庫)

ボタニカル・ライフ―植物生活 (新潮文庫)

 

 平凡社版『園芸家の一年』に解説を寄せている、いとうせいこうさんの園芸家エッセイ

 

ビールと古本のプラハ (白水Uブックス―エッセイの小径)

ビールと古本のプラハ (白水Uブックス―エッセイの小径)

 

 チェコと言えばこの本も大好き。タイトルが素晴らしい。

 

*1:アンネ・フランクが亡くなった収容所として有名

もしも愛する人の背中をタランチュラがテクテク登っていたらどうする?―『その道のプロに聞く 生きものの持ちかた』

 年度末でアナコンダに噛まれたレベルで生活ズタズタなのですが『その道のプロに聞く 生きものの持ちかた』がとても面白かったのでご紹介します。

その道のプロに聞く生きものの持ちかた

その道のプロに聞く生きものの持ちかた

 

 本書はカブトムシやトンボなどの身近な生き物や、猫や犬やハムスターなどのペットとしておなじみの生き物、そして毒蛇やワニガメなどの危険生物まで、その道のプロ(獣医師、ペットショップオーナー、爬虫類専門店主、動物園長)が持ちかたを伝授する正しい持ちかたの専門書です。

 例えば、あなたがある朝通勤や通学のために玄関扉を開けた途端、目の前にニワトリとヒヨコがいたとする。こんな世の中ですから、何が起こるか分かりません。ニワトリなんて楽勝だと思っていると大変なことになります。実は意外な危険動物なのです。

オスのニワトリと戦ったことがある方ならご存じだろうが、ニワトリって本当に怖い!飛びかかって前蹴りをくらえば、その鋭い蹴爪(または距爪)でズボンは裂け、こちらの反撃は難なくかわされ、次の瞬間その立派なクチバシで的確に弱点を攻めてくる!

動物のお医者さん』のヒヨちゃんの凶暴さはリアルなのだ。そんな凶暴なニワトリと玄関で対峙することになった通勤通学前のあなた。どうすればいいのでしょうか。

勝負は一発で

まずは殺気を消し、さりげなく近づきます。そして距離を上手くつめることができたら、ニワトリが距離を保つため、後ろを向いたところを、両手で羽を包みこむように「がばっ」と持ってしまいましょう。一発で決めるのがコツ!

 そして一緒にいるヒヨコは、野球のボールを投げる時のような指使いで、首の両サイドから全身を優しく包み込むように握るのが安全な持ちかた。写真も大きく載っているのでわかりやすいです。

 

 無事に通勤通学できて安心したあなたの机の上に大型犬グレート・ピレニーズが座り込んでいた。どうしよう、始業時刻まで間がない。とりあえずこの体高80cm体重45kgの大型犬にどいてもらわないといけない。ついつい前足を肩にかけて腰から尻に手をまわし支えようとするが、これはお勧めできない持ちかたです。もし大型犬が暴れだしたらキックをされてしまいますし、おさえられなくて落下してしまった場合は犬がうまく着地できません。そしてあなたにも犬にも腰の負担がかかってしまう。

 最も安全な持ちかたは、胸から前足の付け根と後ろ足を後方から手をまわして持ちあげるこれ。この方法なら、自然な型で全身をおさえることができますし、もし落下しそうになってもと落ち着いて下ろしてあげれば、そのままの姿勢で安全に立つことができます。

 大型犬、中型犬、小型犬の持ちかたが写真と共に解説されているので、正しい持ちかたがわかります。また、基本的には正しい持ちかたで対応できるのですが、獣医さんが治療する場合など犬や猫をおさえつけなければならないこともある。そんなホールド魂(生きものを安全、的確に保定する高い精神性)の真骨頂たるおさえつけ方も本書にはあります。

 

 帰宅中のあなたの目の前に、ヒキガエルが飛び出してきた。そして後ろからは大型特殊車両の音が迫りくる。まずい!このままではヒキガエルが車に潰されてしまう!あわててヒキガエルを両手で包みこもうとするがカエルは大暴れ。しかもヒキガエルは実は毒を出す。安全に持って助けるためにはどうすればいいのでしょう。

ヒキガエルは、目の後ろの耳腺に毒を持っていて、危険を感じると、白いネバネバした毒性のある液体を出すことがある。その白いネバネバは背中から分泌させることもあるので、念のため分泌する箇所をさけて、腰をつまみ上げます。暴れるようなら後ろ足も手のひらで包んでしまいましょう。

 このように、日常にありがちなシチュエーションだけではなく、非常に危険な生き物の持ちかたも丁寧に手順を追って説明されている。マダニやセアカゴケグモの日本での生息もニュースになっている昨今、サソリやタランチュラの持ちかたも知っておいて損ではないはずです。

 

著者の松橋さんは生きものカメラマン。このような本を書くくらいだから、どんな生きものでも持ってしまおう精神あふれる人なのかと思いきや、そういうわけでもない。

キノコ採り名人がキノコの毒にあたるなんてこともあるように、たとえ知っているつもりでも間違うことだってある。この際、割り切って自分の知識にない生きものや疑わしい生きものは持たないという判断を下す……それも勇気だ。

私はカメラマンとして、いろいろな生きものに接しているが、スタジオ撮影など必要にかられない限り、生きものをわざわざ持ったりはしない。知らない生きものには絶対にふれない!

 例えばオオコノハズクのページでは、野生生物がヒトに触られるとそれだけで相当なストレスとなり、ショック死しかねないと警告している。その上で、タオルで赤ちゃんのように包み持つ方法が指南される。

ならば、なぜ持ちかたの紹介本なのか。その理由は「おわりに」にある著者の言葉で明確に示されている。少し長いけれども引用します。

子どもの頃から生きものが大好きで、なんでも捕まえては飼育して、噛まれて、刺されて、ケガをして、時には自分の無知から生きものを死なせてしまったりもして……。
こうして生き物に興味を持ち、自らいろいろと経験してきた人間は、大人になっても、ついついそんな生きものがいる環境を意識してしまうものです。
私のことです。
今は、生きものや自然への教育が「保護」の観点から「見守る」「大切にする」ということを優先させがちです。そうした情操教育により、一般的には生きものを捕まえて飼うのはいけない、という傾向にあるようです。(略)
こうして生きものは捕まえてはいけないものとして、子どもたちの関心は、あっちに向いてしまいました。子どもたちがあっちを向いた結果が、生きものへの無知を生みます。

 とにかく楽しい本ですが、生きものを持つということは、「その生きものの体の構造をよく知り、習性を理解し、個体を観察し、負担をかけずに、こちらも怪我をせずに接する」ことに他ならない。持ちかた、というのは多くの生きものと共に生きるための鍵なのです。

 

 本書では持ちかた以外にも、ハリネズミの爪切りや、危険生物の解説、カブトムシに離してもらう方法、生きものに会いに行くときに鞄に詰め込む道具など、豊富な写真と共に実践的な生きものとの接し方が書かれています。獣医師とペットショップオーナーで目的によって持ちかたが異なる生きものも紹介されており、様々なシチュエーションで私たちが生きものと付き合っていることがよくわかります。

きれいな写真とユーモラスな筆致ゆえに、のんびりと眺めて楽しめる本ですが、生きものの知識と観察を重視する姿勢がきちんと貫かれています。「持ちかた」は意外にも深いテーマなのですね。

 

どんなものでも自由に作れる―『レゴはなぜ世界で愛され続けているのか』

 子供が部屋中にばら撒いたカラフルな直方体を素足で踏んで今日も叫ぶ。ソファーの下にも掃除機の中にも存在する愛しくも憎いあのレゴブロックを作る企業の歴史と経営戦略の遷移を書いた『レゴはなぜ世界で愛され続けているのか』を読みました。原題は「Brick by Brick: How LEGO Rewrote the Rules of Innovation and Conquered the Global Toy Industry」、著者のペンシルバニア大学ウォートン・スクールのデビット・C・ロバートソン教授は本書の執筆のために5年間にわたってレゴ関係者にヒアリングを実施しています。

レゴはなぜ世界で愛され続けているのか 最高のブランドを支えるイノベーション7つの真理

レゴはなぜ世界で愛され続けているのか 最高のブランドを支えるイノベーション7つの真理

 

  憎たらしいほどにどこにでも潜り込むあの素敵な直方体のブロックたちは、玩具として圧倒的な知名度を誇っているのに、それを作っている企業のこととなるとあまり知られていません。デンマークのビルンという小さな町で1932年に大工さんが作った会社、社名のLEGOデンマーク語の「よく遊べ」を意味するleg godtの頭文字の組み合わせ…こんな明日にでも子供に披露できる豆知識ももちろん書かれていますが、本書の主題は企業の栄光の発展と大赤字による転落、そしてそこからの奇跡の回復とブランド復権のなかでレゴがとってきたイノベーション戦略の構築です。

目次をざざっと見てみましょう。

第1部 レゴのイノベーションはいかにして生まれたのか
第1章 レゴブロックの誕生――ブランドを支える6つの基本理念
第2章 スター・ウォーズを受け入れられるか――加速するイノベーションと試される理念
第3章 3億ドルの大赤字――暴走したイノベーションのなれの果て

第2部 イノベーションの「7つの真理」をきわめる
第4章 レゴらしさを取り戻せ――イノベーション文化を築く
第5章 レゴシティの復活――顧客主導型になる
第6章 バイオニクル年代記――全方位のイノベーションを探る
第7章 マインドストームアーキテクチャー、ファンの知恵――オープンイノベーションを推し進める
第8章 スターをめざしたレゴユニバース――破壊的イノベーションを試みる
第9章 レゴゲームの誕生――ブルー・オーシャンに漕ぎ出す
第10章 ニンジャゴーというビックバン――創造性と多様性に富んだ人材を活用する
第11章 ブランド復権――レゴの改革

 第1部は創業からの発展と栄光の時代、そして暗転し2003年に3億ドルの赤字を抱えての大崩壊について。第2部は崩壊したレゴがイノベーションの再構築により復活していく様子が書かれている。堅牢な老舗企業のイメージがあったレゴですが、10年ちょっと前には倒産の危機に瀕していたわけです。レゴを経営危機に陥れたイノベーションの暴走とマネジメントの失敗、新製品の数多くの失敗例、そして人事刷新などの内実もぎっちりと書かれており、大丈夫なんだろうかここまで書いちゃってと心配になってくるくらいです。

 ポッチとチューブによる連結でカチリとはまり簡単にははずれない高い品質、シリーズを越えて繋がる統合性を持ち、創造性と想像性を養うブロック玩具の帝王を襲ったのは、連結式ブロックの特許期限切れによる新規参入企業の増加や、電子ゲームの波(ファミコン(1983~)、スーパーファミコン(1990~)、ゲームボーイ(1989~))、子供の生活の変化でした。レゴの重役は「もはやブロックは時代遅れ」だと焦り、伝統を捨て、大胆な改革と新シリーズを立ち上げ、徹底的に古いレゴを破壊しようとした。1998年当時レゴ社のCEOポール・プローメン氏によって経営の新機軸として打ち出された七つの行動指針(イノベーション)は、あまりにも短期間に行われたため社内管理が追い付かず、業績不振を招く。しかし、その後、経営陣を刷新し、七つの行動方針の導入のための社内ルール策定等を継続的に実施し続けた結果、レゴ社は新たな製品をいくつも成功させ現在のような世界的なブランドとしての地位を築きます。

 本書はイノベーション戦略の教科書としても、レゴという企業の歴史書としても読めます。企業経営やイノベーションの実現という切り口からも、現在も愛される玩具たちの誕生秘話としても楽しめます。

 私には(申し訳ないのですが)(本当にひどいなと思うのですが)、レゴの行動方針が迷走し、全く組立要素のない引っ張ると電子音が奏でられる玩具やヒーローの玩具などを市場に投入していく、いわば「大失敗」の時期の話がとても印象的でした。大赤字の引き金となるそれら商品は、現在ならば「レゴらしくない」と思えても、当時のレゴ関係者にとっては古い文化を破壊してくれる力強い新製品たちだった。玩具業界の変化スピードに戸惑い、レゴブロックを時代遅れで孤独な遊びだと思い込んだ故の急激な大改革は一時は失敗に終わります。その後に、レゴは過去に例のないほどの大規模な顧客調査を実施しますが、その結果は当時のレゴ経営陣の思い込みとは異なっていた。

レゴが好きな子どもも、ふつうの子どもだったということだ。わずかにテレビの視聴時間が長く、いくらか読書量が多かったが、おもな面ではほかの子どもとまったく変わらなかった。スポーツもすれば、テレビゲームでも遊ぶし、音楽も聞けば、友だちと出歩いたりもした。(略)レゴ好きの子どもにとって、テレビゲームとブロックとは排除し合う関係ではなかったのだ。Xboxにのめり込んでいるから、レゴのスター・ウォーズシリーズには興味がないかと言えば、必ずしもそんなことはなかった。

何より重要なのは、レゴ好きの子どもは小さなプラスチックのブロックで遊んではいても、嫌われ者ではなかったことだ。この調査では、レゴ好きの子どもは賢く、たいがい仲間からもよく思われていることが示されていた。レゴが世界中で愛されるおもちゃであることを考えたら、これは当然の結果だったかもしれない。

レゴはこういった顧客調査とさまざまな顧客テスト、そしてそれを活用したルール作りにより製品改良を行い、新製品開発に必要な具体的なアクションをとれるようになっていきます。

現在もレゴはオンラインゲームで失敗したり、ボードゲームに参入して成功したりしています。古くから変わらない老舗玩具企業にみえて、意外にも激動の中を走るレゴ。その繁栄を願う著者の言葉を最後に引用しておきます。

一九九八~二〇〇三年にかけての迷走を、「二度と繰り返してはならない」とレゴの経営陣は肝に銘じている。筆者も、レゴの繁栄が続くことを心より願う。レゴがあるだけで、世界はいくらか賢くなり、いくらか創造性が豊かになり、この上なく楽しくなるのだから。

表紙の黄色いミニフィグ人形の笑顔にも、なかなか波瀾万丈の歴史があったのですね。

 

読者の心のなかにある固有の空間―『「場所」から読み解く世界児童文学事典』

『「場所」から読み解く世界児童文学事典』を読みました。

「場所」から読み解く世界児童文学事典

「場所」から読み解く世界児童文学事典

 

 どんな本なのかは、本のそで(カバーの折り返しの部分です)に次のように説明されている。

登場人物やあらすじは忘れても、記憶に残っている情景は無いだろうか。物語全体を象徴するような「場所」から物語を読みなおすと、そこには新たな意味が浮かび上がってくる。前作『「もの」から読み解く世界児童文学事典』から5年を経て、読者と「場所」と物語をつなぐ第2章の幕開け。

 2009年に刊行された『「もの」から読み解く世界児童文学事典』の姉妹編となっているのが本書です。お姉さんの『「もの」から~』の方が説明しやすく、例えば『ライオンと魔女』のターキッシュデライト(あの謎のお菓子)、『赤毛のアン』のパフスリーブ(流行の袖の形)などが載っているといえば、想像しやすいと思います。本書『「場所」から~』は、その場所版。

ひとつの場所につき一作品、200の場所と作品についての事典となっています。その200の場所がつどう場所、はたらく場所、くらす場所、たたかう場所、まなぶ場所、あそぶ場所、まよう場所、であう場所の8つに分類されている構成。

この場所と作品と分類が、すぐにぴったりと理解できるものもあれば(例:『ハイジ』・山小屋・くらす場所)、どうしてそういう分類になったのかと少し考えさせられるものもある(例:『小さいベッド』・小児病棟・たたかう場所)。200項目のうち、ほんの一部を挙げてみます。

 

「優れた人物たちが集まる場所」の代名詞ともなる梁山泊は、水滸伝において108人の好漢が集う地。腐敗した権力の及ばぬ空白地帯でのアウトロー集団の活躍は、民衆のロマン。

ベルギーのほぼ中心を東西に通る言語境界線は、フランデレン(フランダース)地域とワロン地域の境界線でもある。フランス語公用圏ワロン出身の主人公ネロは、オランダ語フラマン語圏のフランデレン地方に引き取られる。言語も価値観も違う地域に移動を余儀なくされた少年と犬の悲劇。

ザ・ロックの異名で知られる脱獄不可能な監獄島。しかし、実は子供が住んでいた。監獄島は看守や技師などそこで働く人々と家族が生活する場所でもあったのだ。主人公ムースは治療が必要な姉と、姉の治療のために心のバランスを欠きがちな母親を支えている。母は姉を有名な障害児施設に入れようとしている。彼女たちのために、12歳の少年は、ある人物に助力を求める。その名は、暗黒街の帝王アル・カポネ…。

1832年のパリは街に不穏な空気が流れていた。不景気と疫病の流行で困窮した民衆の怒りは蓄積し、反乱軍の蜂起に繋がる。反乱軍残党を追う官憲から逃れるため、ジャン・ヴァルジャンが反乱軍のマリユスを背負って下水道のなかを歩くシーンこそが、本作のクライマックス。巨獣のはらわたと呼ばれるパリの下水道は闇の世界であり、ひたすらに他人の重さを背負って歩く行程は、主人公の人生そのもの。

観賞用ではなく食用に花や木を栽培するキッチンガーデンは実用的な庭と言える。ハーブを育てるというと響きは可憐だが、実際は大変だ。西の魔女ことおばあちゃんの家にあずけられた主人公「まい」は、葉っぱからなめくじを落とし、毎日水やりをし、煮出したセージの煎じ汁をかける。庭仕事をして、家禽の世話をするおばあちゃんとの生活は、生きることの喜びと死や魂について学ぶ修行となる。

  • あそぶ場所・『ちいさいモモちゃん』の保育園

今でこそ待機児童が問題になるが、1962年に本作が刊行された当時は三歳未満の子供を保育園に預けて働くママは珍しかった。モモちゃんは1歳で「あかちゃんのうち」に預けられる。そして3歳になれば「あかちゃんのうち」を卒業して、同じ敷地内にある保育園のひよこ組に入るのだ。保育園のストーブにトラブルがあったある日、先生たちは「あかちゃんのうち」でお迎えを待たせようとするが、モモちゃんは断固拒否。「もう、あかちゃんは卒業したんだから」。誇り高き3歳児の成長の物語。

サハラ砂漠に飛行機を不時着させてしまった「ぼく」と不思議な少年「王子さま」との9日間の交流の物語はあまりにも有名。実際のサハラ砂漠は大部分が石の転がる礫砂漠で、風化作用が進んだ砂砂漠は2割以下。しかし、最終ページにたった2つの曲線で表現された砂砂漠と上空の小さな星は読者の心の中に大きな割合を占めることになる。

  • であう場所・『カバランの少年』の台湾

台湾には人口比2%程度の本来の先住民がいる(民国政府の亡命と共に移ってきた外省人に対する、元からの居住者である本省人もルーツは民代末から清代に大陸対岸地域からの移住者)。先住民は14の民族が認定されている。ペイポのカバラン族もそのひとつ。主人公シンクーは古道の散策中に200年前の世界に足を踏み入れる。タイムファンタジーの手法から、主人公の民族的アイデンティティの目覚めを描いた中国語圏の先駆的本格ファンタジー。

 

既読作品に関しては、場所を鍵にもう一度作品に向き合うことができるでしょう。しかし、事典であると同時にブックリストとしての利用も可能で、気になる場所から作品にあたるという楽しみ方もあります。

難点がふたつあります。ひとつは、本書は姉妹編の『「もの」から~』との作品重複を避けた事典となっているため、あの作品のあの場所に関しても読みたいと思ってしまう贅沢な欲望がうまれてしまったということ。そして、もうひとつは、多くの人に愛されるべき本としては、(失礼を承知で言うと)ちょっとお値段が高い。児童文学の対象年齢者が背伸びをすれば届く本であって欲しいのですが。

 

「もの」から読み解く世界児童文学事典

「もの」から読み解く世界児童文学事典

 

 

 

子どもを幸せにするひとつの手だて―『子どもと本』

『子どもと本』を読みました。

子どもと本 (岩波新書)

子どもと本 (岩波新書)

 

 帯には「『子どもの図書館』(石井桃子著)刊行から半世紀……「その後」は?」とあります。石井桃子著『子どもの図書館』は、日本の図書館事情の遅れを痛感した児童文学作家の石井氏が1958年に自宅で開設した「かつら文庫」の様子を軸に、子供と本との関わりが書かれています。当時、全国に公共図書館は七百余り、子供へのサービスの必要性は認識されておらず児童室もない、司書は専門職とは認めらておらず入れ替わりも多かった。公共図書館の充実・発展に希望を託し締めくくられた『子供の図書館』刊行から半世紀がたち、現在の子供と本はどのような状態にあるかを本書ではとりあげています。

とは言うものの、目次を見ればわかるのですが、子供と本を取り囲む状況について書かれているのは五章です。まずは一章~四章で、子供と本との関係性がどのように生まれて、育つのかに大きくページが割かれています。著者は財団法人東京子ども図書館を設立、以後理事長として活躍する松岡氏。

目次は以下の通り。

一章 子どもと本とわたし
 幼い日に本のたのしみを知ったのが、幸せのはじまりでした。
二章 子どもと本との出会いを助ける
 暮らしのなかに本があること、おとなが読んでやること、
 子どもを本好きにするのに、これ以外の、そして、
 これ以上の手だてはありません。
三章 昔話のもっている魔法の力
 昔話は、今でも、子どもがこころの奥深くで
 求めているものを、子どもによくわかる形でさし出しています。
四章 本を選ぶことの大切さとむつかしさ
 だれかのために本を選ぶときに働くのは基本的には
 親切心―多少おせっかいのまじった愛情―だと思います。
五章 子どもの読書を育てるために
 子どもたちに、豊かで、質のよい読書を保障するには、
 社会が共同して、そのための仕組みをつくり、支えていくことが必要です。
あとがき

 

 子供と本に関して多くの人が気になるのは「どうすれば子供が本を好きになってくれるか」「どんな本を子供に与えればよいのか」ということだと思います。私は自分自身が本が苦手な子供だったくせに、自分の子供には本好きになってほしいと思ってしまう。そう思いながらも、読んだ本の冊数と共に幸福が積みあがる訳ではないことを知っています。子供が本を読むことを期待するのは自身の下心ではと考える事もありますし、子供に本を選ぶ際には自分の好みの押し付けになるのではと怯えています。でも、本を読む子供の姿をみると、なんとも言えないあたたかい気持ちになる。

本書ではそういったフラフラとした疑問と怯えにも、学問的研究結果と、著者が子供と本と関わり続けた実際の経験から真摯に答えています。

例えば二章では赤ちゃんに本を読んであげる方がいいのか、読み聞かせの適齢期はいつかという子供の年齢月齢と本との関わりも誠実にひとつひとつ取り上げている。

三章では昔話の効用に関して大きく取り上げられており、おもしろかったです。自分自身も昔話を楽しんでいたし、いまもよく覚えていますが、しかしながら昔話は残酷ですし、ご都合主義ですし、王様やお姫様満載の階級社会が多いですし、非科学的です。こんなものを子供に馬の首をごろりと転がすように与えていいものか。と、いう心配性な大人の疑問にも、心理学による昔話研究と実践との両輪から答えてくれます。具体的に多くの絵本と児童書の名前が挙がるのも理解しやすい。

自分が子供の時にも既にお馴染みとなっていた、古い本を子供に読むときに、ちょっと躊躇していたんですよね。今はこんな言い回しはしないぞとか、こんな形の車は走っていないよね、とか。そういった昔の本に関しても以下のように書かれている。

 子どもの本の場合、新しい本ーー出版されたばかりの本ーーを追いかける必要はまったくありません。子ども自体が"新しい"のです。たとえ百年前に出版された本であっても、その子が初めて出会えば、それは、その子にとって"新しい"本なのですから。そして、読みつがれたという点からいえば、古ければ古いほど、大勢の子どもたちのテストに耐えてきた"つわもの"といえるのです。

「子ども自体が新しい」という言葉にはっとしました。そういえば、そうだよね。

 

子供の減少もあり、数は減ってきていますが、日本には現在でも全国に3000から4000の私設の「子ども文庫」があります。公共図書館学校図書館以外で子供に読書の場を提供しています。多くの場合、子供と本が好きな人が労を惜しまず、無私の働きとして場を用意しています。名もなき大人たちの「子供と本が好き」という思いに子供は守られ、成長していく。そしてその大人を支える活動のエネルギー源は子供である。子供と大人の本を介した幸福な循環と課題に関しては、実際に本書にあたってください。

 

本書は全体に非常に平易に書かれており、内容の理解ができないということはないはずです。今現在まさに子供と本との関わりに悩んでいる忙しくて若いお父さんお母さんにもおすすめです。

子供と本、そして迷いながらも子供と本に関わろうとする大人への、信頼と誠意がつまった本です。読み終えた後、もう一度、本書の一番最初を読み返して著者の冒頭のあいさつを読んで、なんだか胸にこみ上げてくるものがありました。

 子どもと本。こうふたつのことばを並べて書いただけで、じんわりと幸せな気持ちになります。このふたつが、わたしのいちばん好きな、そして、いちばん大切に思うものだからです。 

 

 

その後のことは、よくわからない―『モーツァルトの息子』

先日までガリレオの娘さんに関しての本を読んでいた流れで、ふと表題が気になって池内紀さんのエッセイ『モーツァルトの息子 史実に埋もれた愛すべき人たち』を読みました。

モーツァルトの息子   史実に埋もれた愛すべき人たち (知恵の森文庫)

モーツァルトの息子 史実に埋もれた愛すべき人たち (知恵の森文庫)

 

 1998年に集英社から出た単行本『姿の消し方』の改題・文庫化。どういった本なのかは「文庫版のためのあとがき」の著者自身の言葉が適切だと思うので引用したい。

この『モーツァルトの息子』に入っている三十人は、読書の裏通りで出くわした人々である。ものものしい伝記を捧げられるタイプではなく、その種の伝記にチラリと姿を見せ、すぐまた消える。ただなぜか、その消え方が印象深い、そんな人たち。

モーツァルトの伝記は数多くあれど、残された息子は注目されないまま伝記は終わる。そんなモーツァルト二世のように、歴史の中で確かに実在した、名前を残した、(そして忘れられた)、30人の人生が紹介されるのですが、語り口に哀愁と小気味良さがあり、まるでミステリ小説を読んでいるかのようです。

表題となったモーツァルトの息子がやはり読者としては覚えが良い存在でしょうが、それ以外の人たちがより印象に残っています。18世紀のウィーンにおいて誰もが名を知る落書き魔、読書家の殺人鬼、カフカから送られた膨大な恋文、奇妙な顔ばかりを作った男、三十年戦争を終わらせたスウェーデン女王、罵倒だらけの旅行記を書いた男、などさまざまな人々が登場しては消えていく。

ミステリ小説のようだと感じたのには理由があり、登場する人々を語る際にちょっとしたオチがつくことがある。例えば、サイレント映画の巨匠エーリッヒ・フォン・シュトロハイムは「貴族の血」というタイトルで紹介されている。「召使がそっとドアをノックする。ノックの音が気に入らないので撮影に三日かかった。」というホンモノへのこだわりがある。名にフォンと付くように、元貴族だという映画監督は実は…。例えば、恐ろしく素朴で下手くそな詩を書く素人詩人がいる。笑ってしまうほどに下手な詩集は版を重ね、増補版を生み、一世紀にわたって絶えず売れたが、詩人の名前も詩集のことも文学史には登場しないのは何故か…。例えば、イタリア国王ウンベルト一世を暗殺したカエターノという男がいる。謎めいた暗殺者の突発的な犯行にアナキスト集団すらうろたえた。どの団体にも属さず、どんな陰謀も持たない犯人の、不可思議な国王殺害の動機とは…。

 

どうも本書自体が裏通りに属する書籍らしい。著者曰く、

書き上げていた四十人ちかくから三十人を選んだのが『姿の消し方』(集英社、一九九八年)のタイトルで本になった。多少の自信もあり、わりと気に入っていたのに、なぜか早々に書店の本棚から消えてしまった。

文庫本として息を吹き返すも、時間の流れに静かに押し流されようとしている。確かに生きて死んだ人々の人生に触れることができて、とても楽しかったです。

 

このうえなく高名で親愛なる父上様―『ガリレオの娘』

青コ~ナ~、近代科学の父、ガリレオ・ガリレイ~!赤コ~ナ~、ローマ教皇、ウルバヌス8世~!
科学と宗教の分裂、対立の象徴として、今なお語られる17世紀のガリレオの裁判、即ち彼の記した『二大世界体系に関する対話』で、聖書に反するコペルニクスの地動説を支持したとして有罪判決を受けたという事例。この裁判からイメージされるガリレオ像は正しき自然科学の申し子にして、教会の対立者です。有罪判決を受けて呟いたとか実は言ってないとか噂される「エップル・シ・ムオーヴェ(しかしやはりそれは動くのだ/それでも地球は動いている)」という言葉の力強さと高潔さに胸打たれる人も多いはずです。理不尽な教会と教皇ウルバヌス8世に対し、孤立無援の状態で戦った現代科学の師父ガリレオ超かっこいい。ガリレオ、右だ右!腹嫌がってるぞ!と応援したくなる。

しかし、ここでひとつの事実が。ガリレオ・ガリレイには娘があり、娘を修道院に入れています。愛娘はキリストの花嫁たる修道女。なにやら教会の対立者のイメージから大きく離れます。

ガリレオの長女の修道女マリア・チェレステが修道院から父に書いた124通の手紙から、ガリレオの人間像に迫ったのがデーヴァ・ソベル著『ガリレオの娘』です。

ガリレオの娘 ― 科学と信仰と愛についての父への手紙

ガリレオの娘 ― 科学と信仰と愛についての父への手紙

 

ガリレオ・ガリレイは生涯結婚はしませんでしたが、内縁の妻マリナ・ガンバとの間に二人の娘と一人の息子をもうけます。そして二人の娘がまだ12、13歳の頃に修道院にいれている。理由はいくつか推測でき、内縁関係の娘であることから結婚ができないと考えた、ガリレオの健康状態が優れない、次女リヴィアに引きこもりの病的傾向があった、男やもめとなったガリレオにとって娘の養育の協力者がいなかった、そしてガリレオの研究との対立者の企てを懸念していた、などです。

本書のタイトルたる『ガリレオの娘』とは、長女ヴィルジーニア(修道女マリア・チェレステ)のことであり、父であるガリレオ曰く「娘は、たぐいまれな知性の女性で、比類のない善良さを備え、私にこのうえない優しい愛情を抱いています」という凄い娘。現在彼女に関して残されているのは一枚の肖像画と父親宛ての124通の手紙だけですが、本書で紹介される彼女の手紙は驚くほどの美文で、常に父に献身する姿が想像できます。

健康状態が優れず、ワインを頻繁に飲む習慣のある父ガリレオを心配し、困窮する修道院での厳しい日課と勤めの合間に父のための繕いものをし、父と弟が喧嘩をした際はその場にいないのに仲裁に入り、ペストがイタリアを襲った際は祈りと舐薬を送ったマリア・チェレステ。厳しい修道院生活の中で、ガリレオが宗教裁判にかけられたことによる心痛もあり、彼女は33歳の若さで命を落とす。本書の中では彼女の手紙がガリレオの物語の要所で次々と登場し、その当時の生活と共にごく一般的なキリスト教徒であり、父親であり、研究者であるガリレオ像を浮かび上がらせてくれます。

手紙の中から読み取れるガリレオは、教会に対立する者ではありません。敬虔なカトリック信者であり、自然を研究することによって聖書と神の言葉に合致する真実が見いだされると深く信じていたようです。

ガリレオは、学問上の論敵を徹底論破するスタイルの学者であり、当時のしきたりから離れて大衆に分かりやすい口語文で本を出版するなどの点から敵対者も多くいた。ですが逆に支持者も多く、ルネ・デカルト、ピエール・ド・フェルマーをはじめとした研究者たちだけでなく、聖職者の中にも強くガリレオ支持を掲げる有力者はいたのです。孤立無援ではなく、赦免のためにローマに乗り込んでくる仲間がいました。ガリレオが自説を出版する際も、結構、根回しをしているのです。

また、教会も悪・即・火刑!というわけではなく、地球が動き太陽は不動であると断言するのならば聖書に対立するが、仮説として抱くのならば容認するというスタンスだったようで、これもイメージとは少し違っていました。

近代科学の父にして自然科学の代表闘士という役割を長く果たしてきたガリレオ・ガリレイ。しかし、その娘の存在から見えるのは、家族を愛し、教会と対立せず、極めて敬虔なカトリック信者という当時としては一般的な人間です。

短い生涯を通して常に父を愛し続けたヴィルジーニアが、修道院にはいる際に選んだ修道女名はマリア・チェレステ。「チェレステ」は「天界の」を意味します。星に魅了されていた父への共感を示したのでしょうか。