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わたしたち園芸家は、未来に対して生きている。―カレル・チャペック『園芸家の一年』

小説以外

 プラハが舞台になっている映画や小説を楽しむと、いつもチェコという国は「オタク国」だなと薄らと感じてしまう。もちろんオタク魂を持った人は世界中にいる。でも、国としてのオタク国となるとイギリス、日本、そしてチェコが思い浮かぶのです。それぞれ蒐集、詳解、技巧と異なるオタク面を見せつつも、オタク国は基本的にオタク個人を野放しにして面白がる点は共通している。

 チェコのオタク文化は飄々として淡々としているイメージがあります。恐らく、チェコと言えばカレル・チャペックが真っ先に思い浮かぶからでしょう。彼の本業は劇作家であり評論家。しかし、日本では児童文学作家、『一つのポケットから出た話』のミステリ作家、『ダーシェンカ』の愛犬家、兄ヨゼフと共に『ロボット』という言葉を生み出した戯曲家、そして園芸家のイメージが強いかもしれません。影響力があり多くの側面を見せるカレル・チャペックの園芸オタクっぷりがよくわかるのが『園芸家の一年』です。

 『園芸家の一年』(『園芸家の12ヶ月』として馴染んだ方も多いかも)は園芸オタクであった著者が綴った園芸愛あふれる不朽の名作。訳書は複数回出ています。久しぶりに読み直したら、やはり面白かった。

園芸家の一年 (平凡社ライブラリー)

園芸家の一年 (平凡社ライブラリー)

 

(文中の引用は全て、飯島周さんの訳された平凡社ライブラリー版に拠っています)

  本書はユーモアと皮肉によって綴られた園芸オタクの随筆です。ただただ面白い随筆として読むことも可能ですし、季節の中での庭の自然を楽しむ手引書としても優れています、また、園芸という人が自然の片鱗に対峙する趣味の中で見出す人間心理の物語としても読めます。ここではオタクあるある話として見ていきましょう。

 オタクたるもの、対象をひたすら愛する。馬糞を抱えて庭の中心で愛を語る。

さて、この芳香を、園芸家はすでにあの厩肥の、湯気を立てる藁の山の中に感じている。その香りに酔いながらも注意して、この神の贈り物を庭一面にばらまく。それはまるで、ひと切れのパンにマーマレードを塗って自分の子供たちに与えているようだ。さあ、おまえにやるよ、おでぶちゃん、おいしく食べろよ!マダム・エリオ、あなたには丸ごと、ひと山さし上げよう、あんなに美しくブロンズ色に咲いてくれたことのお返しだ。カツミレよ、なにも言わずに、この馬糞のごちそうを受け取ってくれ。そしておまえには、この褐色の藁を広げてやるよ、嫉妬深いフロックスよ。
 なぜ鼻をそむけるんだ、みんな? わたしがこんなによい香りをさせているのに?

  オタクたるもの、対象を分類してみたくなる。

カフェにはカフェの植物が、そしてまた、燻製食品店には別のものが繁茂していること、植物のある種ある属はどこそこの駅で、別のある種ある属は線路の番人小屋のところで、とくに元気がよいことに気がつく。詳細に比較して研究すれば多くのことが証明されるだろう。

(この後、実際に「停車場植物」「鉄道植物」「肉屋植物」「飲食店植物」と分類している)

  オタクたるもの、対象を早口で羅列する。

これらのありとあらゆるミニチュアのカンパニュラ、ユキノシタ、ムシトリナデシコ、クワガタソウ、ノミノツヅリ、(中略)リンドウ、タカネミミナグサ、アルメリア、ウンラン(また中略)ミヤマカラクサナズナと、イチョウシダと、グンバイナズナ、エチオネーマ、さらにもちろん、キンギョソウ(またまた中略)さらに劣らず重要な、たとえばサクラソウ、ミヤマスミレなども忘れてはならない(またまた中略)これらの花々を苦労して育てたことのない人には、この世の美しきものすべてについて語らせるわけにはいかない。

 オタクたるもの、対象にはいつだって恐れと不安も抱いている。

三日目には、長い白い小さな足の上になにかが生えてきて、狂ったように大きくなっていく。さあでてきたぞと大声で叫ばんばかりに喜び、初めての小さな芽吹きを、まるで瞳のごとく大切に取り扱う。四日目になって、その小さな芽が信じられぬほどの長さにのびたとき、これは雑草かもしれない、という不安が頭をもたげる。鉢のなかで成長する、最初の長い細いものは、つねに雑草なのだ。

  オタクたるもの、対象のために買いまくり、家人に叱られる。

球根はまだいくつか残っているのに、鉢がもうないことに気づく。そこで鉢をいくつか買い足す。ところが今度は、球根はもうなくなったのに、鉢と培養土が余っていることを発見する。そこで、さらに球根をいくつか買い足すが、今度は土が足りなくなったので、新しく培養土をひと袋買う。するとまた、土が余る。その土を捨てたくないので、また、鉢と球根を買い足す。
 こんなやり方をさらにつづけていると、ついには、家人から禁止命令を下される。

  このように、何かに熱中しているオタク人間の滑稽さと愛おしさを描く中で、人間と人間社会に対する非常に鋭い洞察も飄々と織り交ぜている。それはシリアス顔でありながら常にユーモアを感じる文章の中で、絶妙なタイミングで繰り出される一文であり、これに関しては実際に本書にあたって頂きたい。ポーカーフェースで冗談を言い、大げさな誇張と大胆な比喩に笑って、そして泣いてほしい。

 

 カレル・チャペックは冬の嵐の日に、庭仕事をしたせいで1938年のクリスマスに肺炎になって亡くなっている。愛する庭に殺されたようなものとも思えるが、しかし、もしも生きていたらどうなったでしょうか。

カレル・チャペックファシズム批判的要素のある作品を多く発表した作家でした。脅迫を受けても亡命を選ばず、チェコで生きていた。そして彼の死を知らぬナチス・ドイツのゲシュタポは1939年に彼の屋敷に押し入っている。もちろん、この反ファシズムの「危険人物」を逮捕して収監するために。実際に、彼の兄であり、本書にも多くの挿絵を寄せているヨゼフ・チャペックは風刺漫画を問題視されて逮捕され、ベルゲン・ベルゼン強制収容所*1で命を落としている。どのような死が良き死かと考えることは不謹慎で愚かかもしれませんが、庭に命を捧げることができなければ、カレル・チャペックもまた強制収容所で非業の死を遂げていたでしょう。

 恐怖の嵐が吹き荒れる時代の中で綴られた『園芸家の一年』では徹底的に政治が無視されている。庭で土をいじり、肥料を混ぜ込み、ホースに悪戦苦闘して水をまき、種を植え、水をやり、芽吹きをまっている。そればかり。荒れ狂う政治と恐怖の時代を無視するという究極の皮肉を、本書はやってのけているのです。

 もちろん、そんなことは考えなくても楽しめます。何度だって笑えるのんびりとした園芸随筆なのですから。

真正の、最善のものは、わたしたちの前方、未来にある。これからの一年、また一年は、成長と美を加えていく。神様のおかげで、ありがたいことに、わたしたちはまたもう一年、未来に進むのだ!

残された庭の植物たちは、恐怖の時代に踏み荒らされても、もう土の下で芽の形で存在していたのでしょう。

 

 

ボタニカル・ライフ―植物生活 (新潮文庫)

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 平凡社版『園芸家の一年』に解説を寄せている、いとうせいこうさんの園芸家エッセイ

 

ビールと古本のプラハ (白水Uブックス―エッセイの小径)

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 チェコと言えばこの本も大好き。タイトルが素晴らしい。

 

*1:アンネ・フランクが亡くなった収容所として有名

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